2016/06/24

自主稽古メモ 2016.6.24

今日は短いフレーズを作る。

①自分で作った振付フレーズを踊るときと、
他人の作った振付フレーズを踊るときの感覚の相違
→他人の振付フレーズを踊るとき、頭の中でフレーズのポイント、ダメだし、
言葉が動きとともに想起されてくる
→一方、自分で作った振付フレーズを踊るときは即興的というか、
感覚的なものになってしまっている
→自分で作ったフレーズを踊るときも他人に振りつけられているときと同じ意識を

自分を客観的に、第三者的にフィードバックする、というのは
当たり前といえば当たり前なのだが、改めてそれが発見できたのは収穫。

②言語と動きに関係性
言葉に落とし込み、そこから身体へ反映する、という自分の癖、性質
→感覚的な振付(ex)糸に引っ張られて動く、質感で動く の試行を今度試す

③フレーズの既視感について
→いわゆる動きを作る、ということと行為の連なり、拡大解釈した行為の連なりを作る、
という振付けの差があるような気がしていて。
前者はテクニックベースのモノ、後者はサブテキスト重視のモノ、みたいな感じに
ざっくり考えられるのかも。それにとくに意味はないかもだけど笑
で、個人的には前者が不得意で、後者が得意、みたい。
コンタクトのペアワークとかも後者に含まれるのかな?イメージとしては


と、いきなり自主稽古のメモを貼ってみました。
最近SNSを今まで以上に使い分けてみようと思っていまして、
Twitterは情報、近況垂れ流しSNS
FacebookはいわゆるSNS的な
Instagramはハッシュタグを利用して未知との遭遇もしてみる、みたいな感じで。

このメモはInstagramからのリンクを兼ねて。 その日の稽古日誌ですね。

色々インターネット、SNSが発達している現在ですから
せっかくなので色々試してみようかな、という感じです。

2016/06/21

政治的っていう話から、プロ論。ぷろろんて平仮名で書くとかわ...(ry

蒸し暑く、嗚呼梅雨っぽいなぁ、と思いながらも
今年はずいぶんと雨が少なく、水不足が心配されます。まだ今年は蛙を見かけていない。

今日は井の頭公演まで知り合いのの方がゲスト出演されていた
野外劇団楽市楽座の「ヨイショ、コラショ」を観に行ってきました。
ここ2〜3年くらい劇団どくんごを観るようになって旅する野外テント劇を見るように
なったのですが、毎回出演者の方の出演、音楽演奏のみならず裏方表方も
こなすオールマイティさに感心させられます。
翻って、色々なスタッフの方々に支えられて、
専門で役者やダンサーに没頭できるのであればもっと真摯に深く、
それぞれのことに 取り組まないといけないよなぁ、と自戒を込めて思います。

自分たちの手で、自分たちのやりたいことをゼロからやる。
そこには表現としての縛りや規制もなく、
真の表現、エネルギーの濃さなのだろうなぁ、と思ったり。

そんなことを思ったのは、今日(自分の)TwitterのTLで騒がれていた
「音楽に政治を持ち込むな」問題。
概略→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160620-00010004-trendnewsn-ent

難しい話だ、と思いつつ...
メジャーなアーティストや公的なお金で運営される作品であればあるほど、
公平で偏りのない、多くの人が楽しめる作品であるべきだ、ということなのか。
でもそもそも表現である以上、ある個人による偏りのあるものだとも思う。

表現の価値とはなにか...

なにか醒せてくれたり、新しい価値を見出させてくれたり、
明日からの元気をもらえたり...
色々だと思います。
色々なフィルタや規制、自粛を通して成り立っているのでしょう。

劇場という空間の規制、助成金という圧、受け手の意見、クライアントの狙い。
人に観せる、観てもらうという関係が成り立っている以上、
そういった諸々とどう折り合いを付けて自分のやりたいことをやるか。
バランス、ということなんでしょうか。

今日楽市楽座の野外劇を観ていて、そういったしがらみとは無縁な
自分のやりたい表現、エネルギーを感じ、
何の為に作品を発表するのか、劇場という制度、芸で食べていくということ、
表現で食べていくということ...色々なことを考えさせられました。


クライアントがいる案件などを別として、
自分が活動する舞台芸術の世界において、出演料が発生する作品というのは
基本的に助成金、公的なお金が動いている作品です。
つまり、自分がダンサーとして得ているお金は基本的に公的なものです。
そう考えだすと、自分のダンスというモノは誰のものなのか。
振付をする振付家のモノか、それとも振付家に助成している公的な機関のモノか。
はたまたその公的な機関にお金を納めている人々の一部である観客のモノか。
そこには色々な考えがあるだろうし、明確な答えはないでしょう。
でもそういったことを考えていくと、自分のやりたいことってなんだっけかな、
というのが見えてくるような気もします。

そんなこんなに思いめぐらせているうちに思ったのは
プロというのはその道でお金を稼いでいる人のことというよりも、
お金が発生するしないを別として、そのことに全力で取り組む人のことだ、ということ。
そうゆう人たちと仕事がしたいし、自分もそうありたい。

野外劇の話から政治的な云々から始まってプロ云々みたいな話にトンで、
相変わらず良くわからないと思いながら、
よくわからない繫がり方するから面白いよね、とも思う。

2016/06/13

ダンスのチカラ

しばらくブログ放ったらかしていました。
その間に桜も咲いて散り、梅雨入りして2016年も半分終わってしまいそうです。

4月には松本武士さんの作品「密」を。
去年の12月からコツコツと色々なものを試しながら積み上げた、濃密な作品でした。
真摯に行為を行うことの強さ、
それはいわゆるダンスとしての運動エネルギーの強さを超えて
「ダンス」になっていくんだなぁ、と「ダンス」の強さ、考え方を再認識、発見できました。
コチラの作品、7月にサラヴァ東京で再演させていただきます。
作品自体は若干のショートバージョンになりますが、お時間ありましたら是非。
渋谷でお酒を片手にお楽しみ頂けます。
詳細はコチラ


で、5月からリハーサルしていました、ここ3年ほど参加させていただいている
GRINDER-MANの二子玉川riseでのパフォーマンス、
今年はダンスと音楽をテーマにした「フォーエバーダンシング」。
昨日無事に終了しました。

普段は劇場のなかでダンスを作品化する、ということをしているわけですが
ダンスをそのままのカタチでお届けする、そのままのエネルギーをお届けすることが
できたのではないかな、と思っています。

それと同時に、劇場やとある空間に持ち込まれた瞬間に作品性や価値、
そういったものを問われるようになるのは不思議なものだし、面白いものだな、と。
それが劇場のもつチカラというか、役割というか…


価値のあるものを額縁に納めて眺める。
逆から言えば、額縁に収まっているものは価値のあるものだ。

劇場という空間で上演されるものは価値のある、
作品性のあるものではないといけない。
そのような考え方があるのかもしれないなー、と思ったり。
自分もそういった視点で劇場で作品を見ているような気もする。
そのような自尊心みたいなものが芸術を支えているというか、
さまざまな表現を芸術たらしめているような気さえしてきます。

不安定な自尊心の上に成り立つ芸術。
それがゆえに敬遠されているような気もするし、
敷居高く感じさせている部分もあるように思う。
かといって観客に迎合する、というのも違うような気もする。

なんとも難しいバランスの話なのかもしれない。
自分のやりたいことと、人に観せるために求められるモノ。
その微妙なバランスをとりながら、やっていくものですよね、やはり。


そういった小難しいことは結局考えるだけ無駄な部分もあって、
純粋に踊り続ける身体のエネルギーは美しいし、それはまた観る側にも伝播する。
今回「フォーエバーダンシング」に参加させていただいて改めて思います。

どこかで戦争をしている時に、どこかで誰かが踊っていることは「救い」であり
たとえ雨乞いの効果がなくても、そう信じさせるエネルギーがダンスにはある。

ダンスはそれでいい、ということなのだと思います。

それを作品とすることもできるし、日々の生活の潤いとすることもできる。
正解はひとつではなくて、無数。
好き嫌いはあったとしても、否定すること無くやっていけたら良いのではないかな、と。


もっとダンスと気軽に付き合いながら、深めていきたい。
表現としても生活としても。