2017/01/31

現実は劇場より奇なり。

日々2月の本番に向けてリハーサルに励んでおります。
2月の中旬に舞台に出ます、2014年の立ち上げ当初から関わらせていただいているIntegratedDanceCompany響-kyoの公演です。
お時間ありましたら是非ご来場ください。今回はダブルビル公演で、全く違う毛色の2作品でお楽しみ頂けるかと思います。
コチラでご予約承ります。

IntegratedDanceCompany響-kyo 第4回公演

【日程】
2017年2月18日(土) 18:00開演/19日(日) 15:00開演

【会場】
東京芸術センター ホワイトスタジオ http://www.art-center.jp/tokyo/



【料金】
[一般]
前売3,000円(当日3,500円)
[学生・障害者割引]
前売2,500円(当日3,000円)
*当日学生証、障害者手帳をお持ちください。

*日時指定・全席自由 
*障害者介助の方1名のみ無料
*学生・障害者割引はクリエイティブ・アート実行委員会でのみ扱います。

詳細はコチラをごらんください。 


さてさて前置きが長くなりましたが…


先日NPO法人芸術公社の主催するシアターコモンズのパスカル・ランベールWSに3日間参加してきました。
都市をみる/リアルを記述する」 というWSタイトルのもと、現実や日常生活のリアルをいかに作品として再構築するか、を実践しました。
初日の自己紹介、2日目の街を歩き、採取するフィールドワークを通して、現実世界のなんと豊かなことか、面白いことかを再実感。
もうね、センサーを張り巡らせて街を視て、聴くと、作品作るのが虚しくなるくらいに現実というのは面白すぎるのです笑
そういった面白い現実をどう「リアル」として再構築するか、それをWSを通して実践していったわけですが…

話はちょっとズレますが、個人的には「現実」と「リアル」という2つの言葉は分けて考えています。
普段の会話でも「リアルだね」という言葉の使い方は、既に虚構を前提としていると思っています。
(完全なる現実ではない、現実の再現=リアル)
なんかそのへんのことは昔F/Tの劇評コンペで書いたなー、て思いながらDIGってみたら出てきました、自分の
興味ありましたら読んでみてください、と。

戻りまして、そんなWSを通して思ったことは、「ダンス」を「リアル」として再構築するということは日常生活の異化なのだろうということ。
チェルフィッチュの身体性とか、そうゆうことなんだろうな、て思います。
日常的な身体を日常空間から切り離して舞台で異化する。
でもそうなってくると「ダンス」にとって劇場も、舞台も必要ないのかもしれないなー、と思ったりもするわけです。
つまり、よく身体ひとつあればそこは劇場だ、みたいな言葉はありますが
それは実演者にとってだけではなくて、観る側にもいえることなのだと思うのです。
現実の中に、日常生活の中に物語を、「ダンス」を見出す態度。
それはある種の劇場的な身体と言えるんではなかろうかと。
その「ダンス」を見出す生活態度があれば日常の中に「ダンス」はいくらでもある。
そんな視点を持っていれば…



これも「ダンス」やし



これも「ダンス」なんですわな。

そう考えちゃうとねー、「作品」作るのってなんか虚しくなってきちゃうなー、と。
だって現実に起きていることの方が豊かで、面白いんですもの。
だから「作品」を作るのなら、徹底的に虚構でもいいのかもな、て思ったりします。
これ以上誤摩化しの利きようの無い、身体というものすごい「現実」を使っているのだから、それで十分なのかもしれないですよね。
今まで過ごしてきた逃れられない時間の、食べたもの、経験したもの、その全ての積み重ねであり、装えば見抜かれる、噓の無い身体。
だから身体は偉大なのです。

色々と考えさせられた、いい3日間のWSでした。
不貞腐れずに「作品」を作ることを頑張りたいです。

あ、追記になりますがドネーション制のWSというのが画期的というか新鮮でした、自分の価値観を問われているような感じもして。
そして財布事情も問われているような感じ笑
公演や企画を打つのにクラウドファウンディングをする、と言うのが最近チラホラ出てきていますが、
ドネーション制っていうのもアリなんじゃないかな?て最近思っていたのでそのへんも興味深く。

色々と激動の時代になってきましたから自分の「価値観」というものを問いただしてみるのはいいのかもしれないな、と。

2017/01/24

3割打者がスゴい。

気がついたら1月も終盤。
はー、こんな感じで2017年もどんどん過ぎていくのでしょうね。
でも逆に最近過ぎ去ったことも振り返ってみるとずいぶん前のことの様に思たりして。
時というのはF1のレーシングカーみたいなイメージなのかもな、て最近思います。過ぎ去る目の前の瞬間は最高速度で、
過ぎてしまえばアッと言う間に遠くに行ってしまう。
物理的な感覚と似ていて、遠くだとそんなに速く見えないけど近くだと速い、みたいな。

前置きとはとくに関係なく。

ことあるごとに炎上するキングコングの西野さんの、最近話題になりました「お金の奴隷解放宣言」。
モノづくりに関わる人たちが色々なリアクションをするの、よくわかります。
西野さんの言うことはよくわかるし、現に本の売り上げも伸びているわけだからプロモーションの一環として
考えればいいんじゃない?と思いました、個人的には。
やり方として上手い、というか現代だから出来るやり方だろうし、今後似たようなケースは増えてくるだろうと思う。
フリーミアムっていうんだってね、ブログに書いてあったけども。
ただこうゆう捉え方はもちろんあるし、 中村祐輔さんが言う様に お金と職業としてのクリエーターの距離感を考える必要は
あるんだろうな、て。
距離感の取り方に失敗したり、あまりにそれに慣らされてしまうとこうなったりするし。
アーティストやクリエーターは慈善事業でやっているわけではないので。趣味でやっているのなら別ですが。
結局ね、お金をもらえないとそのことに一番時間を注ぐことが出来ないのですよ、生活があるから。
逆に言えば時間を捧げていることをマネタイズする必要があるのかもしれないけど。
ライフワークとライスワークで分ける、という考え方もありますが、それは個々人の考え方だし。

とまぁこのゴタゴタを見ていて思ったのは、モノ(実物)ではない表現では何が可能か?ということ。
そんなことを思っていたらちょうどこんなTweetがTLに。





なるほどなー、確かにその通りだわ。
打率3割がスゴい、みたいなことですね。わかる人=安打数だとして、分母を増やせばいい。

ではどうしたらいい?

思うに「ダンス作品」と「ダンス」を分けて考えることと、「劇場」と「ダンス作品」を分けて考えるべきなのかと。
「ダンス」はもっと気軽に見れたらいいし、もっと気軽に踊れたらいい。
恋ダンスがものすごく広まったのは気軽に見れたし踊れそうだったし、てことだと思う。
で「ダンス」に興味を持ったら、お金を払って「劇場」で「ダンス作品」を観るのだと思う。
だったらまず「ダンス」に興味を持ってもらえる様に、「ダンス」という球を沢山投げ続けないといけないのだ。
前のブログでも書いた様に発表の場はなにも「劇場」だけではない。
「ダンス」を知ってもらう、興味を示してもらう必要がある。
だっていきなりチケットのお金払って劇場に行って作品観るのって、ものすごいリスキーだしハードル高いもん、普通に考えて。
ミュージシャンでいえばライブに来てもらうことな訳だから、そのきっかけであるCD的なポジションを「ダンス」でどう設定できるか。
最近興味あることはそうゆうことなのかもしれない。
作品を説明することとか、ネタバレについて考えることとか、そこに繫がっているような気がする。
Instagramに自主練の様子を載せるのもそれの延長だと思うし。

今年はそのへんをより意識的に活動してみようかな、と備忘録的に。
とりあえず炎上させたりなんだりしているヒマあったら球投げたり技術磨いたりしたりしたほうがいいと思うので、
地道にコツコツやります、自分は。

2017/01/07

踊りたいの?踊らせたいの?創りたいの?晒したいの?表現したいの?

お正月って三ヶ日とともに去る感、ハンパない。
七草がゆを食べるまでもなく、すっかり平常運転モードです。

今日はオフ日ってこともあったので朝からラジオ聞きながらダラダラ過ごしていたら
妙なことを思いつき、赴くままにTwitterに連投していたことや
3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を観に行って思ったことなどを
備忘録的にまとめとこーっと、ていうブログです、今回は。
ブログってまとめに便利だなー、て本当に思う。


今日朝起きて、とくに夜まで予定もないしボケーッとダラダラしていたら
突然脳裏にダンスとして架空の拳法を作り、その型を一子相伝の巻物に記して、
各流派がお互いに奪い合う、という謎のダンス作品のアイデアが。
発作的に思い浮かんだアイデアな訳だけども、呟きながらよくよく吟味してみると
バトル漫画やフィギュアの解説みたいにすごさを解説してくれたり
すごい感を醸し出してくれたら見やすいというか、いいのかもね、と。
ネタなのかガチなのか、皮肉なのかわからないけどこうゆうのもあるし↓
https://www.youtube.com/watch?v=YVFPbteyPNM

思えば「少年チャンプル」やダンス甲子園がダンスの流行に一役買っているから
「バトル」という要素は多数にアクセスしやすい。
勝敗をつけるとか、点数化するということの弊害はさておきなのだけどもね。
でもいわゆるコンテンポラリーダンスってやつはみんな違ってみんなイイ、
という部分から発している部分もあるので勝敗を付けるのが難しいわけだけども。
個人の趣向に寄るところが大きいし。
だから業界、として成り立たせるのが難しいんよね、そもそも。
業界を生成しにくいから大きな物語(≒レール)が無い、良くも悪くも。
コンペティションで賞を取ったらゴール?教育機関で教える様になったらゴール?
海外に作品を持っていけたらゴール?
どれもゴールのようで、スタートのようでもある。
いつまでたっても各人がそれぞれの独自性を貫く感じ。
それぞれが「個(孤)」だから。

でも流行廃り潮流みたいなものはあるし、
コンペティションで賞を取る人もいるわけで。


そんなこんなを思いつつ、3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を。
思い巡ったことはなぜみんな作品を創るのだろう?ということと
劇場で作品を上演することについて。

踊る場所・機会が無い、踊っていくための焦り、が
作品を創る動機になっていないだろうか?
作品を創るのは自分が表現したいことがあるから?創りたいものがあるから?
1年に新作1つは作品を創らないと、ていう妙な義務感?
実際出場者の方々の胸の内は計り知れないので想像でしかないのだけど、
ダンサーの現状、ダンス界をとりまく現状などを思うと
そんな思いがよぎりました。
舞台の上でしか踊ることは許されていないのか?
人目に晒さないといけないのか?

そしてその発表の場は「劇場」が合っているのか?
ギャラリーにYoutube、いまや発表の場は沢山あるのだよ?
...いや、確かに「踊ってみた!」とかいっていきなりYoutubeで全世界に
自分のダンス晒しちゃう飛躍っぷりもそれはそれですごいと思うのだけど。
たしかに「劇場」は作品、表現に対して優しい、安全な場所だというのはわかる。
しかし一方でとてもバリアフルで、排他的な場所でもある。

そんなこんなが自戒も込めて頭をグルグル巡りました。
みんなどんな思いで「劇場」のために作品を創り、発表するのだろう、と。
思えば去年この「ダンスがみたい!新人シリーズ」で発表した
ソロ「be here」はそんなことも思いながら作品にしてたかもね。

帰りの電車で、
同じく新人シリーズを観に来ていたらしき見知らぬ3人組のおばさま方がいて、
感想を言い合っていたので盗み聞きしてみると、
やはり身内贔屓になるというか、身内への想像力ハンパないなー、と興味深く。
身内以外への想像力の欠如は民主主義の崩壊みたいです↓
https://t.co/C3UzXSJOEG (2017年2月6日まで)

話が脱線しました。

思い直してみて、大抵ダンスを観に行くときは身内が関わっているときです。
ダンスに限ったことではないですが、全く知らない人の作品を観に行きたい、と
思えないのがひとつの問題なのだよな、と。
たまに観に行くとしても口コミや話題性を糧にするわけだし。
そこを解決するのが評論家という方々の仕事だと思うワケだが、
批評が宣伝になってしまってはダメだし、実際日本の舞踊評論はゴニョゴニョ...

先程も述べた様に、ダンスは「個(孤)」なモノ。
とくに(日本の)コンテンポラリーダンスは多様性を出発点にしている、と言える。
だから「ダンス、どれから観たらいいですか?」てすごい難しい質問だし、
多様すぎるダンスのどれを入口にするか、
てそのあともダンスを観てくれるかどうかに関わる大きな問題。
個人的にもダンスの宣伝をするのを憚られたりするのはその部分。
こうゆう趣向の人にはこのダンス、という薦め方はできるけど、
そんなにみんな自分の「目」を知っているか、つーとまた別の話だし...


色んなことに思い巡りました、ホント。


でも自分を顧みて
ワクワクするアイデアや楽しい、ていうのがあるから作品作っているな、と。
そこは大事にしていきたいと思ったし、やれることはやろう、と思いました。

もうちょっと書きたいことはあったのだけど、
今日の話とは上手く繫がらないというかまとめる自信無いっていうか、
もう寝たいので寝ます。

2017/01/01

ス。






















あけましておめでとうございます。
旧年は大変にお世話になりました、と言いますか
駄文にお付き合い頂きありがとうございました。

今年は2017年。
"2017"は素数です。"2017"の"2"と"1"と"7"も素数です。
"0"に関しては…素数なのかはよくわかりません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352181478?__ysp=77yQIOiHqueEtuaVsA%3D%3D
http://media.qikeru.me/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B00/
こんなことも書かれているの、よくわかりません。

そんなことは置いておきまして。
"2017"は素数なので、皆様の2017年が素敵な、素晴らしい年になりますように。

と、きれいに冒頭を締めようかとも思うのですが
年賀状の印刷するためにデータをコンビニで出力するも誤字脱字を発見したり
色がきれいに出なかったりで光沢紙印刷を自宅と行ったり来たりしながら
3回も繰り返すという、ね。
そんなに苦労して印刷して書こうとしている年賀状も
業界的になのか世代的になのか、数が両親と比べて圧倒的に少ない、
というか元旦に届いたのは美容室からの1枚だけでショボーンとしてますが。

そんなすべり出しの2017年。

さて、2017年の話をする前に、2016年を軽く振り返っておこうかと。


年間を通してありがたいことに様々な作品に関わらせていただきました。
2016年を終えてみて思うことは
「ダンス」はもっと自由でイイ、ということ。
劇場という空間に、60分というパッケージに落とし込まなくてもイイ、
もっと自由であるべきだ、ということ。

逆に言えば劇場という空間に何を求めるのか、何を求めているのか。
劇場のプロセニアムアーチ のことを額縁、と言う様に
劇場の作品に私たちは価値や作品性を求めるのだと思います。
この辺りは2016年6月のブログでも触れていて、今自分でも読み返して
ほー、なるほどなー、と思ったりもします。

小劇場の置かれている状況みたいなことについて
2016年の新作ソロ「be here」や
大人少年「現代劇作家シリーズ5:J.P-サルトル『出口なし』フェスティバル」で
お世話になったd-倉庫の林さんが文章でまとめていたりするのですが
劇場に持ち込んで作品化する、ということにある種抵抗みたいなモノが
生まれているのかもしれないなぁ、と思ったりもします。

作為性や演出、物語性が疎まれるような。
リアルや本当である、ということばかり作品に求めているのかもしれません。
まぁ現実的な話をすると予算的に難しい、てことなのだと思いますけどね笑

そんなことを思ったりしましたので、
劇場で作品やるならガッツリ「作品」 という感じのことをやるべきだな、と。
2016年はソロしか作っていなかったので今年は作品作りたいなー、て
思っています。
でもそれも上演作品に限らず、映像でもいいのかも、と思っています。
さっきも述べた様に「ダンス」はもっと自由でイイ、ですし。
劇場で作品やるなら「ダンス」ということにこだわらず、
もっと総合的な作品として作り上げられたらいいな、と。

なんかねー、最近はもう「ダンス」がどうのこーのっていうことより
ダンスや身体という方法論を、ベースを使ってなにかする、
ぐらいのざっくりした感じでイイ、と思っています。
それは作品を作ることに限らず、環境づくりとかでもいいのかもしれないし。
コンテンポラリーとかヒップホップとかバレエとか、
ジャンルでぐだぐだ言うのも面倒くせーや、てな感じです。

はい、突然口調が悪くなったような気もしますが...

そんなこんなで2017年の目標は「変化」と「挑戦」にしようかと思っています。
なにかと移ろいゆき、不安定で、先行きの見えない現代ですが
その変化に対して柔軟に、迷いながらも清濁併せ飲み
サバイバルしていきたいです。

このような感じで、相変わらずのペースでやっていきますが
本年もよろしくお願い致します。