2017/06/30

ダンスの視点。

梅雨入りしたのになかなかまとまった雨も降らず、ただジメジメ。
なんとも水不足が心配です。

昨日今日と炎上しております、バニラ・エアの件
論点が色々なところに飛んでいったりしてそもそも何が問題なんだっけ?
みたいな部分も多々あるのですが、クレーマーだとか法整備だとかということよりも
「歩く」ということをどう捉えるか、で意外とあっさり解決するんじゃないの?と
個人的には思ったりしました。

歩くとは…

ある・く【歩く】
[動カ五(四)]
  足を動かして前に進む。歩行する。あゆむ。「―・いて帰る」「野山を―・く」
  あちこち動き回る。移動する。必ずしも徒歩と限らず、乗り物などで外出する場合にもいう。「得意先を―・く」「世界を股(また)にかけて―・く」
  野球で、打者が四死球で塁に出る。「怖いバッターを―・かせる」
  月日を経る。過ごす。あゆむ。「―・いてきた半生を振り返る」
  (他の動詞の連用形に付いて)あちこちで…してまわる。「尋ね―・く」「酒場を飲み―・く」
[可能]あるける
出典はこちら

一般的に(≒健常者的に)考えれば(1)なのですが、(2)の意味ももちろんある。
それに「腕で歩く」ということは障害者と関わる中で実感できるし、
4つんばいの動きなんてしょっちゅうやります、ダンスの中では
ひとつ留意して欲しいのは俺はいわゆるコンテンポラリーダンスのダンサーで、床使いが好きな、ということではあるのですが…
現に今活動してるIntegratedDanceCompany響-kyoにも「腕で歩く」ダンサーがいます。

歩くという機能は脚にのみ備わっていることではない。


この考え方があれば、「自力で歩く」ことの解釈も広がり
「あー、そうゆうこともあるよね」とすんなりといくような気がします。
同様に「背中で語る」こともあるし「膝が笑う」こともあるし、
「耳で見る」や「肌で聞く」こともあります。
それは身体感覚、内側で起こっていることでしかありませんが、
「腑に落ちる」ことなのです。

床に寝そべる、ということが誰にでも心地いいこととは限らないし、

座るということが楽だとは限らない。
逆に、はたから見たら「えぇ!?」ということでも本人にとっては安全なことだったりします。
それは関節が過伸展することだったり、階段を腕で這い上がることだったり。
障害の有無、ということに限らず身体が違えばそれぞれ違った身体のものさしがある。




これジャンパーだったのか。

はい、多少脱線しましたが…
法整備のこととかバリアフリーのこととかはよくわかりませんが、
ダンスをやっていることによる身体感覚でわかること、というのがあるわけで。

そうゆう視点で社会を見つめる、ということ。
これもある種の社会とダンスをつなげることなのではないかと思うのです。

ダンス(特に舞台芸術的な方面)をやっていると、
ダンスの無意味さとか社会性の無さのようなものにキューキューさせられ、
ついアール・ブリュットとか教育方面のこととつなげて
社会的な意義があるんですよ!みたいなことにいきたくなりますが
そういった方向性だけではなく、ダンスによって得られる身体の知識、
それを社会に還元していく、発信していくこともできる気がする。
もちろん結果的に教育的なことなのかもしれません。

そんな考え方ですらダンスと社会を無理くり繋げて
ダンスには社会的な意義があるんですよ!
と言おうとしているのかもなー、と思ったりもしますが笑
とにもかくにも、ダンスをしていることで得られる視点というものがあり
せっかくダンスやっているのならその視点を活かしてみたらいいんだろうな、と思いました。
そんでそれを言語化する、ということも社会と繋げているってことなんだぜー
Yes!自己肯定!

はい、深夜のテンションでお送りしました。




2017/06/24

ミエナイチカラ。

今年の8月いっぱいで終了、ということで行きたいねー、と稽古場で話に挙がった
DIALOG IN THE DARK

ですが既に残りの前売り分は完売。だったら団体予約でいけばいいんじゃない?ということで
4月からリハーサルをしている作品のメンバー+αでリハーサルの一環と託けて
今日体験しに行ってまいりました。

体験した感想としては、
先日参加している研究グループ「BodySynergy」でファシリテーションさせていただく機会があり、
伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人は世界をどう見ているか」(光文社)をベースに
「ブラインドウォーク」「ソーシャルビュー」を取り上げた時に
本を読み直していて印象に残った一節を思い出しました。

「目の力によって対象と自分を分断し、境界線をはっきりとさせること、それが近代における「大人になる」ということです。低次の感覚から高次の感覚へ−教育とは、まさに子どもを触る世界から見る世界へ移行させることなのです。」

視界が塞がれることによって生まれる外界への興味や好奇心、
触覚を頼りに世界を認識しようとする身体やその時の怒られた記憶などを思い出し、
子どもが世界を認識しようと色々ベタベタ触っちゃうのがよく理解できました。

目で見えてしまうから境界線が生まれる。
見ているのは輪郭(=境界線)だということ。
境界線があるから分かる、識別する、分ける。

境界線は「差」を生む。だから分かる、しかし分けてしまう、比べてしまう。

現在再演に向けてリハーサル中の「Boder」の初演クリエイションの時に挙がった話なども合わさって、
そうゆうことなんだよなー、て思いました。
「境界線」ていうのは自分の中でやはり大きなトピックなのだ。

今回は知り合いばかりのグループで体験したので全然知らない人たちと体験してみたいなー、
思って早速ファイナルVer.の追加開催に申し込んでしまいました笑

行ったメンバーとリハしている作品や再演の話はまた詳細出たらお知らせします。