2021/03/11

十年一昔?

今年も3.11がやってきました。
毎年この日が近づくときだけ騒いでしまうのは軽率な気もするし、かと言って全く思い出さずに過ごすというのもやはり違う気がしていて。
今日は朝から毎年恒例のイベント仕事で、みんなで14時46分に黙祷をした以外感慨に浸ることもなく、淡々と過ごしました。

10年、ですね。

とはいえ状況が前へ進んでいっているのかと問われると、甚だ疑問ではあり。
でも前を見ないと進めないし、前に進んでいないと過去に飲み込まれてしまう気がします。

ちょっとした興味から2011年3月11日に自分がTwitterでなにを発していたのだろうと調べてみました。



震災当日はGRINDER-MAN「SONAR」の公演初日でした。
金沢での滞在制作での作品。

ゲネプロ終わりか何かで、自分の不甲斐なさみたいなものを感じながら劇場の床に寝転がって天井のバトンを眺めていたらゆらゆらと揺れていて「あー、地震かなー」と感じていたのを覚えています。

ニュースを見ても首都圏の状況ばかりで東北の状況は入ってきてなかったような気が。
電話は繋がらないけどTwitterは繋がるという不思議な状況で、大量に流れてくる情報に右往左往しながらも、なんかカッコつけていいこと言っている感ありますね笑

落ち着くことって大事です。
深く呼吸して、落ち着く。
深く呼吸して、自分を確認しながら、落ち着く。

10年経ってもその時々のモノをそれぞれが抱えていて、10年間抱え続けているモノもあります。
マスクで呼吸の浅くなるようなご時世で、ゆったりと落ち着いて過ごすのはなかなか難しいですが、しっかり呼吸して落ち着いて生きたい。

今思うのは、そんなことです。




東日本大震災発生から10年

死者数    15,899名
行方不明者数 2,526名

(警視庁まとめ 2021年3月10日現在)

2020/12/31

みんな大好きPriceless。

気がついたら12月31日になっていました。
ありがたいことに色々と忙しく活動し続けることができ、無事2020年を終えられそうです。

2020年、大変な年でしたね。

自分が身を置く舞台業界は壊滅的な打撃を受けたと言っても過言ではないでしょう。イベント仕事もググッと減り、しかし一方で新しい道を模索しようとすることもできた一年でした。

不要不急、と言う言葉をよく聞く一年でした。
そんなことはハッキリと定義できるものでもなく、しかしながら自分の生活はほとんど不要不急と言われるものばかりでした。
不要不急の逆は必要火急、と言ったところでしょうか。しかし簡単に分別できるものでもなく…なんともモヤモヤした言葉です。そんな中、先日新聞で不要不急、必要火急で分けるのではなく「大事なこと」が何なのかを考えようという記事を読んで腑に落ちました。
「大事なこと」は個々人で異なる、しかしそれは自分自身で考え向き合うこと。それ自体がこのご時世大事なこと。他人にとって世間にとって不要不急でもあなたにとって「大事なこと」ならそれはそれで大事にしなきゃいけないです。そこは揺るがずに貫いていきます。

さてさて、先日22日のグレートコンジャンクションを経て、土の時代から風の時代に入ったそうです。物質の時代から精神の時代へ入る、らしい。だからと言うわけではないですが、個人的には干支4周目に入るので来年は「継続と変化」をテーマに頑張っていきます。

みなさま良いお年を。

2020/07/23

枯れ続けるケ。

緊急事態宣言が明け、およそ2ヶ月弱。
日々新規感染者は増えて緊急事態宣言下のベストを大幅に更新してますが、緩みきった自粛は戻らず。
社会は回り続けています。
個人的には自粛はもはや難しいのでしっかり検査体制整えて体調不安な人がしっかり検査受けられる状態を維持し、感染者を悪者扱いせずに社会を回していくのがいいんだろうと思っています。

実はこのブログでは一切触れてませんでしたが、7月頭に久々(およそ5年ぶり)に自主公演やってました。
創作過程なども含めたサイトがこちらです↓
https://otona-shonen.com/distance/

「新しい生活様式」とやらをとりいれながらも映画館、劇場、スタジアムなど各種動き始めていく中、「新しい生活様式」またそれに基づくガイドラインは個人的に受け入れ難い部分があります。とくに上演芸術に対して出演者にもフェイスシールド、マスクを要請(と言う名の半ば強制)をすることに対して。
なんと言うか…それがやりたいのか?と正直に思ってしまいます。
マスクやフェイスシールドはいくら感染拡大防止策とはいえ、表現上余計なノイズだと思います。そのノイズを受け入れることは易々と「表現の自粛要請」に従っているのでは、と。
普段なら「表現の自由」ということに殊更敏感な界隈が随分と大人しく「表現の自由」を侵害されることを受け入れていませんか?
演出にうまく取り入れてたね!とか気にならなかった!とか、そうゆう話でもないような気がして。その方向性になるとコロナ禍なのに頑張った、という下駄を履かせられた感が拭えない。実際先日の自分の自主公演もそういった感想が多くなりがちだったので。
創った側としてはそこを超えたい欲はありますね。


話が脱線しました。
と言うよりもここから本題。


先日Twitterにてこのような記事を見まして。

ザ・インタビュー「31字に込められたホストたちのコロナ対策」
https://www.designstoriesinc.com/special/theinterviews_maki_tezuka/

非常に良いインタビューだったので備忘録として。
という部分と記事内の下記部分が非常に心に残ったので。

繁華街の魅力って刹那的な一瞬の酩酊だとか、社会で理性的に生きている時間から逸脱した場所である価値だと思うんです。 

これは「夜の街」と変なレッテルを貼られてしまった繁華街に対しての言葉なのですが、
劇場やライブハウス、上演文化に関わる場所にも当てはまることだと思います。

つまり「非日常」を提供する場所としての価値。

あまり詳しくはないのですが、「ハレ」と「ケ」という言葉があります。

「ハレ」…儀式や祭り、年中行事などの非日常
「ケ」…日常生活

日常生活の「ケ」はルーティンワークであり、エネルギーが徐々に目減りしていきます。
エネルギーが枯渇していくことを「ケガレ(ケが枯れる)」
そのエネルギーを回復させるのが「ハレ」
というような日本的世界観だそうです。

劇場も繁華街も「ハレ」の場です。

そこへ「ケ」と化したマスクやフェイスシールドを持ち込むこと、感染拡大防止のために口うるさく注意お願いをすること。
このことが「ハレ」の魔力を失わせてしまうように思います。

誰も感染拡大したいとは思っていません。
施政者は大したこともしない、自己責任な空気を醸し出します。
しかし自己判断すればいいのだとも思います。
無責任で無能な政治家に自分の自由や生命の責任や安全なんか託したくないというのは正直なところ。ゼロリスクを煽り疑心暗鬼や不安を増長する、そんなヤツらの言うこと聞いて日常を破壊されるのはまっぴら。

最近はそう考えるようにしています。

とはいえ別に蛮行に走るわけでもなく、ただ今まで通りの生活を続けるだけなんですけどね。
もちろん人混みではマスクしますし、毎日検温してますけど、自分の中のガイドラインに従っています。
「新しい生活様式」なんて糞食らえだ。
枯れ続ける「ケ」が続く中で、「ハレ」すらもその魔力を失ってしまうわけにはいかない。
そのことをパフォーミング・アーツの端っこでもがき続けます。

2020/05/23

たかが「自粛」然れど「自粛」。

非常事態宣言から早1ヶ月、そーりからイベント等の自粛要請が出て早3ヶ月弱。
まもなく非常事態宣言も解除されそうな雰囲気が出てきていますが、個人的には表現の世界において暗澹たる思いがあります。
コロナ禍を経てソーシャル・ディスタンス(フィジカル・ディスタンス)や三密という言葉生まれ浸透していきましたが、それが表現にとって足かせになるのではないかと危惧しています。

劇場などのガイドライン都主導のアーティスト支援プログラムの対象作品条件などを見ていると、表現の自由のことを考えさせられます。コロナ以降はコロナ以前の様な表現は避け、自粛するべきなのか。
例えばエログロなシーンは昔からありますが、それがそのような行為を助長しているのかどうか?それと同様に身体的密着度の高い表現やいわゆる三密と呼ばれる表現が感染拡大を助長していると捉えるのか?
表現の自由というのは事ある毎に話題に上るものですし、それこそ去年のあいちトリエンナーレでは相当吹き上がった話題です。表現者にとっても鑑賞者にとっても大事な話題なはず。しかしこのコロナ禍という現状、思った以上にその話題が吹き上がる事なくずいぶんあっさりと表現を「自粛」し、表現の不自由を受け入れてしまっている様に思います。自分自身そのことに違和感を覚える様になったのはここ1〜2週間だし、「革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談」のニコ生の影響は非常に大きいのだけど。
コロナ禍に伴う感染拡大防止という正義の名の下の「自粛」、それは表現への「自粛」にも繋がっているのにあまりに無自覚にアーティストは受け入れちゃってるのでは?表現の自由云々の話題になるときは普段ならもっと吹き上がるのに、今回は「自粛と補償はセットだろ!」という方向にばかり話が膨らみすぎたというか。
ていうかアーティストなんて元々河原乞食みたいなもんだからそもそも何に殉ずるの?みたいなことでもある気がしている。もちろんお金は大事ですし、人のスキルや創作物にお金を払う文化は大事だと思っています。助成金に依存し続ける様な形じゃ早かれ遅かれ芸術文化は死に絶えるだろうし、その程度で死に絶えるんならその程度だし、その程度にアーティストが芸術文化を堕したのだとも思います。

表現は時に人を傷つけるし、必ずしも受け入れられるものとは限りません。その中で表現者は表現する責任を負って、それでも表現するか否かはその手に委ねられている。表現の自由ってそうゆうことなのでは?だからアーティストの美学や信念、哲学が宿るのではないんですかね?
だからコロナ禍になったからマスクつけて新しい表現の模索を!とかソーシャルディスタンスを保った上で新しい表現が生まれるのでは?とかリモートならではの表現を!ていうのもわからなくもないんですけど、自分の信念に沿って表現したいことに最も適した表現方法を選んだらいいんじゃないかと思っています。コロナだなんだって意識しなくても残念ながら私たちの意識はコロナ以前には戻れないわけで。それは311でも十分経験してるわけじゃないですか。


以前とは同じ様には観れないと思います。


感染拡大防止の観点から〜〜な表現は避けてください。

この状況下ではすんなりと受け入れられる文言だと思いますが、少し立ち止まって考える必要があるのではないかな、と思っています。そこは自覚的に「自粛」するのか。そこに自覚がないのであれば、表現はいずれ死ぬと思います。
そのうち〜〜な表現を含んでいるものには助成金出せません、みたいな話にもなってくる様な危惧もあります。その時になって初めて「あれ?」と思うのでは遅いでしょう。
今から違和感を感じていたい。


まだ「自粛」で済んでいます。たかが「自粛」です。でも然れど「自粛」です。


2020/04/06

越境。

4月です。仕事がボッコんボッコン無くなって健康的に引きこもっています。
これからはポストコロナの時代になるんでしょうね。
第二次世界大戦レベルの出来事なんだろうなぁ、と起きていることの重大さと
身の回りの生活の変わらなさ、そのギャップに心が追いついていないのか
はたまた諦めがついているのか、随分と穏やかに過ごしています。

ポストコロナの時代。

SDGsとかが叫ばれているけど、自然との関わり方をちゃんと考える時代に入っていくんじゃないかな、と思いました。
前から薄々と思っていたことではあるのですが、↓の記事を読んで尚更。

https://synecoculture.org/blog/?p=2640

2月くらいからウチの猫が腎不全を患いまして。
一時はもうダメかな?と感じるような時期もありましたが、自宅輸液などで多少持ち直しヨタヨタしながらも日々日向ぼっこしたり、寝たりしています。
この小さな命を延命させるか否かも飼い主の判断次第なんだな、と。
しかし果たして本人(本猫?)は生きたいと願っているのか?苦しくないのか?
去勢して家族として迎え入れ、死を目前にした時も飼い主の心情如何で延命させられ続ける。
人間てなんとも傲慢なものだなぁと鬱々とした日々もありましたが、ベランダで何をするでもなくただ日向ぼっこを気持ちよくしている姿を見るのは美しく、自分の寂しさをごまかさずにあれ、と思うのでした。
生産性や有益さや価値がなくたって、生きていてほしい、在ってほしい。

無価値の価値。
今回のCOVID-19騒動で思わされています。

ポストコロナの時代。

多分一つの境を超えて、それはもう戻れない境のように思えます。
それは9.11だったり3.11だったりと同じで。
これからそんな時代を生きていく上で、無価値の価値、考え続けて生きます。

2020/03/11

肉を切らせて骨を断て。

久々に、ホント久々にブログでも書いてみようかと。

今日で9年でしたね。
今年はなんだか3.11ということを強く意識させられているように思います。
やはり夏に「復興」五輪を控えているからでしょうか?
来年で10年だということに途方のなさのようなものを感じたりもします。

ブログはアーカイブ的な機能もあるからいいですね。
毎年この日にブログを更新していたのを見返していて、面白かったです。

右膝の手術前日がちょうど3.11で、今年で術後6年だそうで。
それなりにダンサーとしてキャリアを続けてはいるものの、COVID-19騒動で
バタバタと公演やイベントが中止になる様子、窮する我が身、界隈を見るに
なんだか芸術とはなんぞや?そして芸術で食べていくとはなんぞや?と鬱々。
食べていく、とかそうゆう視点じゃないのかもね、やはり。
そんなことは去年のあいちトリエンナーレ騒動のあたりから思ってはいます。

だったらなんで続けているんだい?というのを最近考えていまして。
やりたいことは「文化を耕す」ということなんだろうなと思い至りました。
例えばそれは芸術文化だったり、各々が自分の「目」で見て自分の「頭」で考える文化だったり、
製品ではなく人の能力やキャリアを尊重してお金を払う文化だったり、様々ですが。

漠然と、途方も無いミッションではありますが、いろいろ自分の出自を振り返ってみて
腑に落ちたのでそうゆうことなのだと思います。


うん、3.11関係ない内容になった笑


でも直接的な被災者ではないけど、毎年考える機会をくれるし、ブログ書くきっかけだし
関係なくは無いんですよね。
被災者では無いけど、当事者、なのでしょう。

正直マジ3月の出演イベントも吹っ飛んだし、バイトの現場も悉くトンで仕事0状態で
軽く無気力状態で月末の支払いとかどーすんの?と軽く無気力に陥っていますが、
昨日は乙女座満月とやらで星の並び的にこれから良くなっていきますよー、てことらしいので
ほんじゃまぁ鬱々としていてもしょうがないからやったらぁ!と自分を鼓舞していこうかな、
と2020年の3月11日に思っていました、という記録です、これは。

踏ん張りどころだ、頑張れ、俺。
頑張ろうぜ日本。

やるしか無いのだ。生きているのだから。
Show must go on...No, Life goes on.


東日本大震災発生から9年

死者数    15,899名
行方不明者数 2,529名

(警視庁まとめ 2020年3月10日現在)

2018/03/31

ダンサー稼業。

あっという間に3月が過ぎてしまい、2017年度も終わり。
桜も雪が降ったかと思うとパッと咲いて、パッと散っていっていますね。

2017年度も終わりという事で、最近思っていることを2018年度に向けてまとめみようかと。

2017年度もありがたいことに色々な作品、振り返ってみるととてもバラエティ色に富んだ作品たちに
関わらせていただきました。

そういった作品を通して、お世話になった振付家の方々と話していて思ったこと。


ダンサーとして圧倒的に色々足りていない、自分は。
ダンサーとして生計を立てていきたいのであれば。


日本の現状、「ダンス」で生計を立てるのであれば例えばクラスを教えたり、
バレエ団に所属したり、あるいはテーマパークのダンサーになったり。
生計を立てる、ということであればいくつも方法はあるように思います。
ダンスで生計を立てられないのは、自分で「ダンス」の幅を狭めているということ。

しかし大事なことは「ダンス」で生計を立てたいのか、自分のやりたいダンスをやりたいのか。
ダンスが好きだからダンスで生計を立てようとする、というのは少しズレることのように最近思っています。

理想はもちろん自分のやりたいダンスで生計を立てるということ。
しかしながら、現状それは難しい。

そのためには自分のやりたいダンスの、社会的な価値を高めていかなくてはいけないのだと思います。
そのことをしながらも、プロのダンサーとして受けられる仕事に応えていくということ。
そのためには正直色々足りていない…

多分ダンスは趣味でも続けていくだろうし、
ダンスで生計を立てたいがためにダンスをやっているわけではないのだな、と最近気づきまして。
結局のところダンスを通して人生が豊かになったと思うし、人間力を上げるためにダンスをやっていたいのだと思います。
もちろんそれで生計が立つのであれば万々歳。

日本の文化レベルがー、とかそれは私のやりたいことではない、とか
ブツクサ文句垂れる前に色々とやれることはやってみて生計を立てられるか。
そのことにちょっと挑戦してみたらいいんじゃないかな、と思っています。
せっかくやりたいことをやれる環境にいるのだ。

「お前はちゃんと自分の人生を生きているのか?」

最近そんなふうに問われたように思います。
やっと自分の人生の当事者として人生が始まっていくような。

2018年度の始まりに、そんなことを思います。
2017年と32年間に感謝して。

2018/03/11

変わったかい?

すっかりブログ不精ですが…
毎年やっていることですし、惰性と思わずブログを更新しようかと。

7年ですね、東日本大震災から。

自分も7年歳をとったわけですが。
何か変わったのだろうか?ということを今年はふと思いました。
あいも変わらず、のほほんと生きているようにも思います。
その都度その都度、自分を省みて改めなくては、と思いますが
なんだか変わっていないようにも思います。
変わるにしてもタイミングが合わなければ思っていても変われないのだろうな、とも思います。

思います、ばかりだ。

今年度の予定もほぼ乗り切って、来年度が見えてきました。
思うだけでなく、行動する1年にしようかと。
変えていこう、色々と。

変わってしまったポイントとしての3月11日にそんなことを記しておく。
変わってしまったものは戻れない。
新たに変えていくしかない。

リセットは利かない。



東日本大震災発生から7年。

死者数    15,895名
行方不明     2,539名
避難者    7,3349名

(2018年3月9日付 警視庁発表 )

2018/01/01

それは人生、私の人生。

わー、近年稀に見る筆不精っぷりが発揮されてまして…
全然ブログを更新していないまま2017年が終わってしまいました。
2017年夏以降ほとんど更新していませんでしたが、
9月には初の海外出演ツアー、IntegratedDanceCompany響-kyoでイギリスへ、
半年間リハをしてきた松本大樹さんの白い狼では朗読に初挑戦、
10月には日本のコンテンポラリーダンス界の先駆け的存在イデビアン・クルーに初参加、
11月にはじゅんじゅんSCIENCE「街角」再演、
12月は3週間に及ぶリロ・バウアーのWSなどなど…
涛の日々でした。
…更新するネタいっぱいあったんじゃないかと思うのですが。
なんだかHPの大改築も相まって、タイミングを色々と逃していました。

他にも夏までは定期的に「身体を探る会(仮)」にお付き合いいただき、改めて自分の体のボキャブラリーと向き合ってみたり
webCMや街頭広告の映像など新しいことにも挑戦させていただきました。


ダンサーとして、表現者として一段階進んだような、実りのある1年になりました。
また同時にダンスとの付き合い方、ということをよく考える1年でもあったように思います。


さて、明けて2018年!

ここ数年はダンサーとして様々な現場に関わらせていただくことも多く、たくさんの刺激をいただきました。
だからでしょうか、最近作品作りたいなー、という意欲がムクムクと湧き上がってきております。
2018年はまたそういったことに挑戦していこうかな、と。
もちろんダンサーとしても日々研鑽を積んで頑張っていきます

それと同時に。
人生、ということにもう少しちゃんと向き合ってみようかと。
どのように生きていくか。
ダンスを本格的に始めてから今年で10年目。
色々と日本の難しい状況とか肌身で感じています。
そこに屈せず、やりたいことを続けていくためにはどうしたらいいか。
何もしていなくても歳はとっていくし、周りの環境も変わっていく。
何も考えず変わろうとしないと、変わる機会すら逸してしまう。
…と抱負をスラーッと書いてみましたが、とくに肩肘張りすぎずに。
理想を描きながらもそれが単なる理想で終わらないように、色々考えながら挑戦していこうかな、と。
去年の3月に長年勤めたバイトを辞めたり、と環境を変えることで
変わることもあるんだなーというのは実感としてあったので。
変化を恐れずに、捨てるものは捨てる。
…といってもなかなか難しいのですけどね、それも笑

色々と息巻いておりますが、内側で燃えるエネルギーをその都度ギアチェンジしながら適応させていって、
強いエネルギーが尽きないように頑張って生きます。

初詣で引いたおみくじ。



待つだけでなく果敢に挑戦せよ
それは生きることそのもの
運開き 今どんな困難も幸ある恵みに変わるだろう


…なんやこれ、めっちゃいい言葉じゃないですか笑
果敢に挑戦していきたいと思います。

2018年も宜しく御願い致します。

2017/08/22

HP大改修中。

PCの買い替えに伴い、HP制作環境が一新され
大幅なHP改修が行われています。
過去作などのアーカイブの立ち上げがまだできていませんが、
今後の活動予定などのご報告のため、更新させていただきます。
逐一以前の状態に追いつけるよう更新していきますのでよろしくお願いいたします。

…といってもデザインも大して変わってないからなんとも、ですよね笑
HTMLの勉強もちょっとずつ始めたのでそのうちいい感じになっていくかと思います。
生暖かく見守っていただければ、と。

今後ともよろしくお願い致します。

2017/06/30

ダンスの視点。

梅雨入りしたのになかなかまとまった雨も降らず、ただジメジメ。
なんとも水不足が心配です。

昨日今日と炎上しております、バニラ・エアの件
論点が色々なところに飛んでいったりしてそもそも何が問題なんだっけ?
みたいな部分も多々あるのですが、クレーマーだとか法整備だとかということよりも
「歩く」ということをどう捉えるか、で意外とあっさり解決するんじゃないの?と
個人的には思ったりしました。

歩くとは…

ある・く【歩く】
[動カ五(四)]
  足を動かして前に進む。歩行する。あゆむ。「―・いて帰る」「野山を―・く」
  あちこち動き回る。移動する。必ずしも徒歩と限らず、乗り物などで外出する場合にもいう。「得意先を―・く」「世界を股(また)にかけて―・く」
  野球で、打者が四死球で塁に出る。「怖いバッターを―・かせる」
  月日を経る。過ごす。あゆむ。「―・いてきた半生を振り返る」
  (他の動詞の連用形に付いて)あちこちで…してまわる。「尋ね―・く」「酒場を飲み―・く」
[可能]あるける
出典はこちら

一般的に(≒健常者的に)考えれば(1)なのですが、(2)の意味ももちろんある。
それに「腕で歩く」ということは障害者と関わる中で実感できるし、
4つんばいの動きなんてしょっちゅうやります、ダンスの中では
ひとつ留意して欲しいのは俺はいわゆるコンテンポラリーダンスのダンサーで、床使いが好きな、ということではあるのですが…
現に今活動してるIntegratedDanceCompany響-kyoにも「腕で歩く」ダンサーがいます。

歩くという機能は脚にのみ備わっていることではない。


この考え方があれば、「自力で歩く」ことの解釈も広がり
「あー、そうゆうこともあるよね」とすんなりといくような気がします。
同様に「背中で語る」こともあるし「膝が笑う」こともあるし、
「耳で見る」や「肌で聞く」こともあります。
それは身体感覚、内側で起こっていることでしかありませんが、
「腑に落ちる」ことなのです。

床に寝そべる、ということが誰にでも心地いいこととは限らないし、

座るということが楽だとは限らない。
逆に、はたから見たら「えぇ!?」ということでも本人にとっては安全なことだったりします。
それは関節が過伸展することだったり、階段を腕で這い上がることだったり。
障害の有無、ということに限らず身体が違えばそれぞれ違った身体のものさしがある。




これジャンパーだったのか。

はい、多少脱線しましたが…
法整備のこととかバリアフリーのこととかはよくわかりませんが、
ダンスをやっていることによる身体感覚でわかること、というのがあるわけで。

そうゆう視点で社会を見つめる、ということ。
これもある種の社会とダンスをつなげることなのではないかと思うのです。

ダンス(特に舞台芸術的な方面)をやっていると、
ダンスの無意味さとか社会性の無さのようなものにキューキューさせられ、
ついアール・ブリュットとか教育方面のこととつなげて
社会的な意義があるんですよ!みたいなことにいきたくなりますが
そういった方向性だけではなく、ダンスによって得られる身体の知識、
それを社会に還元していく、発信していくこともできる気がする。
もちろん結果的に教育的なことなのかもしれません。

そんな考え方ですらダンスと社会を無理くり繋げて
ダンスには社会的な意義があるんですよ!
と言おうとしているのかもなー、と思ったりもしますが笑
とにもかくにも、ダンスをしていることで得られる視点というものがあり
せっかくダンスやっているのならその視点を活かしてみたらいいんだろうな、と思いました。
そんでそれを言語化する、ということも社会と繋げているってことなんだぜー
Yes!自己肯定!

はい、深夜のテンションでお送りしました。




2017/06/24

ミエナイチカラ。

今年の8月いっぱいで終了、ということで行きたいねー、と稽古場で話に挙がった
DIALOG IN THE DARK

ですが既に残りの前売り分は完売。だったら団体予約でいけばいいんじゃない?ということで
4月からリハーサルをしている作品のメンバー+αでリハーサルの一環と託けて
今日体験しに行ってまいりました。

体験した感想としては、
先日参加している研究グループ「BodySynergy」でファシリテーションさせていただく機会があり、
伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人は世界をどう見ているか」(光文社)をベースに
「ブラインドウォーク」「ソーシャルビュー」を取り上げた時に
本を読み直していて印象に残った一節を思い出しました。

「目の力によって対象と自分を分断し、境界線をはっきりとさせること、それが近代における「大人になる」ということです。低次の感覚から高次の感覚へ−教育とは、まさに子どもを触る世界から見る世界へ移行させることなのです。」

視界が塞がれることによって生まれる外界への興味や好奇心、
触覚を頼りに世界を認識しようとする身体やその時の怒られた記憶などを思い出し、
子どもが世界を認識しようと色々ベタベタ触っちゃうのがよく理解できました。

目で見えてしまうから境界線が生まれる。
見ているのは輪郭(=境界線)だということ。
境界線があるから分かる、識別する、分ける。

境界線は「差」を生む。だから分かる、しかし分けてしまう、比べてしまう。

現在再演に向けてリハーサル中の「Boder」の初演クリエイションの時に挙がった話なども合わさって、
そうゆうことなんだよなー、て思いました。
「境界線」ていうのは自分の中でやはり大きなトピックなのだ。

今回は知り合いばかりのグループで体験したので全然知らない人たちと体験してみたいなー、
思って早速ファイナルVer.の追加開催に申し込んでしまいました笑

行ったメンバーとリハしている作品や再演の話はまた詳細出たらお知らせします。

2017/05/27

ラウド・マイノリティー。

気がついたら久々のブログ更新。もうね、書き始めの定型文が大抵「気がついたら」とか「久々に」なのです。
さらに言うと、大学卒業したくらいから使っていたデスクトップ(iMac)がグラフィックボードからオジャンになったので
先月末くらいにMacbookProに買い換えたのですが、買い換えて以来のブログ更新なので
編集画面のフォントなどが違ったりして若干戸惑っています。
そのくらいに久々です。

最近は4月から新生活な感じが始まりまして、色々あーせねばこーせねばなど思ったり実践しているところです。
一週間における早起き回数が減りまして眠気で気を失うというのが無くなったというのはいいことかも。
リハとかの兼ね合いで夜寝る時間はどうしても遅くなるから遅寝早起きだと身体が追いついてなかったんですね、きっと。


今日は国会議事堂前までデモに参加しに、と言いますかデモを眺めに行ってきました。
「デモなんて意味ねえよ!」みたいな意見はSNSでも散見しますし、
個人的にも過去の経験からそのような感覚はあるのですが、かと言って諦念に浸ってしまうのもなんかムズムズするので
とりあえず物見遊山的な気分でまぁいっちょ見に行ってみるベー、と軽い感じで行ってまいりました。
行ってもコールとかはやらないですし。
そのぐらいの軽い感じが必要な気もしますしね。


それで30分弱ほど道路の対岸でシュプレッヒコールの様子を眺めたりしながら思ったのは
結局これって「永田町」の中の話でしかないんだろうなー、ということ。
国民が直接的に意見を表明する(≒デモ)ということが行われているのは国会議事堂の前であって
実生活の場にまでは波及していない、ということを感じたのです。
他の場所でもやっているのかもしれませんが、比較的SNSなどでそのテの情報に触れる方だとは思う自分でも知らない。
ので一般的にはさらに知られていないのでしょう。
結局「国会」の中でしか政治の話がされていない。
もちろん議員は選挙によって国民に選ばれた代表で、その人たちが議論(実際しているかどうかは今は置いておいて…)しているのだから
それでいいのかもしれませんが、だからと言って選挙が全てじゃないし、選挙の時だけ盛り上がればいいわけではなし。
政治なんて実生活に直接関わってくることなのに生活レベルで話されることはほぼない。
むしろ忌避される話題ですもんね。そもそも話し合うとか議論に慣れてないということもありますでしょうが…
そりゃやっても意味ねーわ、てなるのも頷ける気がします。
国会議事堂前でデモが繰り広げられていても偶発的にそれに出会う人もいないし、知っている人しか出会えないわけで。
そう考えると外山恒一さんとかはまぁやり方としては上手いのだろうな、と思います。
結局政治が興味ある人だけのものなんです、実生活に関わりながらも。
だからもっと根本的に考えなきゃいけないこともあるんだろうな、と思います。


さてさて、政治的な話は重くなりますね〜
本題はここからで、こうゆう事って別に政治に限った話じゃないよなー、と感じたわけです。
要するに内輪、ということ。
偶発的に全く知らない人が出会う機会が用意されているか、ということ。
もちろん情報をキャッチする側の積極さも関係するかとは思いますが、担い手がどれほどそのことを意識しているか、
というのも多分にあると思います。
内輪の中に入って見ないとわからないことも多々あるし、内輪に入ってみて「ダメだ〜ッ」となれば出ればいいし。
でも入り口がちゃんと開かれているか、というのは大事ですよね。
いきなり内輪に入っていくのはやはりハードルが高い。

自分も車椅子のダンサーを含むダンスカンパニーに関わっていなければ、
今ほど知的身体問わず障害全般にセンサーが働くこともなかったかもしれないし、興味を持つこともなかったかもしれない。
色々な世界に違う角度から切り込めるか、切り込む入り口があるか。
自分の知っている世界と全く関係ない世界を結ぶ回路が開かれているか。

最近はダンスとか、芸術におけるそうゆうことに興味があったりします。




2017/03/29

終わりをみつける。

もう気がついたら3月も終わろうとしてますね。
2016年度もお終い、です。

ご存知の方はご存知かと思いますが、実は某カジュアル量販店でバイトしていまして、
本日その最終出勤日でありました。
気がついてみたら勤続4年半、自分でも接客業に向いていないと思っていたのに
ずいぶんと長いこと続けてこれたものだな、と思います。
それもこれも案外にシフトの融通を利かせていただいたり、
マイペースで働かせていただけたり、
色々とよくしていただいた職場の皆様のお陰かと思います。

ありがとうございました。

職場での経験は色々と得るものも多く、いかに自分が狭く小さくマイノリティな世界にいるのか、
ということをとても思い知らされました。
みんな日々の生活を成り立たせるだけでも忙しく、
自分のやっていることなんて意味あるのかなー、と思ったりもしましたが
全く別の内容で職場の女の子と話していたときにふと自分で言った
「価値観の違いがあるから色々な仕事が成り立つ」という言葉で色々と腑に落ちました。
我ながら良いこと言ったな、て思いました笑
 
さてちょっと脱線しましたが…
辞める理由、というのはこれといったものはないのですが
例えるのならサーファーが今日はいい波がきそうだな、と思って海に行って、
いい波に乗る、みたいなことなのかな、と思っています。
今日はいい波がくる、という経験と感覚によるもの
いい波に乗るためには海に行って波を眺めているだけでは無理で、
実際に海に入っていい波を待ち続け、タイミングを合わせて乗らなければいけない。
色々考えてみて、そんなたとえが浮かびました。
……うん、なんとも伝わりずらい例えだ笑

あとは他にも春だから、とか大学生活よりも長く勤めた(4年半)から、とか
色々理由を考えてみたのですが、もっと自分のやりたいことのギアを上げたい、と
シンプルに思ったからなのです。
言うたらいい年齢になってきましたし、それなりのキャリアも積んできたわけで
4年半前とはまた色々と変わってきている。
そういった諸々の変化の中で今一度決意を新たに、ギアをひとつ入れる感じを持ってみたいな、と。
決意を新たにするだけでは人間は変わらず、環境や行動を変えないと変わらないらしいですし。
正直ダンスだけで食べていける算段なんて皆目ついていませんし、
安定的な収入源なくなるぜーッ、みたいな不安もあるのですが
まぁ思い切ってやってみちゃえ、という部分が強かったので。

春ですしね。

ということで時間の融通が随分と利く生活になりましたので、
お仕事とかお仕事とかお仕事とか楽しいお誘いとか、ぜひぜひお誘いくださいませ。
でも4年前とかはそんな感じだったんだよなー、と思うけどもっとダラダラしてた気がする。
こりゃ気をつけないとダラダラしちゃうんだろうな。
ダラダラしない様に皆様ご協力くださいませ笑

あ、ひとつだけ。

仕事辞めたといっても仕事のひとつを辞めただけで10年以上続けているイベント設営撤去の
バイトとかもやっているのでご心配なく。


あと今回辞めるにあたって「終わりをみつける」ということなのかもな、とも。
「終わりをみつける」というのはよく稽古で即興などをやっていると言われることなのですが、
始めてしまうことは意外と簡単でどのように収束させるかの方がよっぽど難しいということ。
ダラダラと続けられてしまうものです、案外と。

思えば今までの人生で自分ではっきりと終わりを決める、ということは
あまり無かった様に思います。
いつの間にかフェードアウトしていたり、学生生活の様にある期間が終わったから終わったり、
そうゆうことは振り返ると多くあるのですが、自分で決めた終わりはあまり無かったかも。
そういった意味でもよかったのかもな、と思ったりします。

放っておいても終わりはくるし、放っておいたら終わってしまう。
それは人生もそうだろうし、人間関係もそうなのだろうと思います。
終わりをみつけることで始められることもあるし、始めるために終わらせる必要もあったりする。
別にセレモニー的なものも無いし、日々の生活の中の1ページなのだろうけど
ひとつ終えて、またひとつ始めたいと思います。

重ねてになりますが、4年半お世話になりました。



2017/03/11

6/4,600,000,000。

なんだかんだで久々のブログ更新になりました。
2月の公演も無事に終わり、確定申告が間に合うのかどうかハラハラしながら
例年よりマスクをちゃんとつけるという、いわゆる普通の予防法により
軽く感じる花粉症に苦しめられつつも、今年も3月11日です。

最近思うのは、地球の歴史から見たら6年という歳月も一瞬で
きっとまた起こることなんだろうな、ということ。
別にそれは悲観しているとか諦めがあるということではなく、
多分起こりうる事実、ということなのだと思います。

そんな風に考えると、人間の一生なんて地球レベルで見たら一瞬で
儚く、とるにたらないことなのかもしれないけど。
でも顕微鏡的に深く深く潜っていったら、とても濃密な時間、みたいな。
相対性理論てこうゆうことなんでしょうか?

一瞬の、光の様に過ぎ去るものだったとしても、強い光であれば
影すらも焼き付ける様に。
その焼き付けられるものが人生なのかもしれませんね。
 

正直震災のことと国のこととか合わせ考えると暗澹たる気持ちにはなりますが…
それも大事だけど、やはり日々生きていくことを丁寧に、
一度きりの、光の様に過ぎ去ってしまうのかもしれない人生を
しっかり謳歌することが大事なんじゃなかろうかな、て思ったりします。

3.11を忘れるとか忘れないとか、そこにこだわり続けるのではなくて
人生のなにか考えを新たにする契機としていけたらいいな、と。
毎年ブログ更新する必要もないのだけどね、
やはりいいきっかけなんだな、て思います。
毎年更新してると過去分見てみるのも面白いしね。



今年は、そんな感じです。



東日本大震災発生から189,302,400秒

死者数           15,893名
行方不明者数   2,553名
(2017年3月10日付 警視庁発表 )


2017/01/31

現実は劇場より奇なり。

日々2月の本番に向けてリハーサルに励んでおります。
2月の中旬に舞台に出ます、2014年の立ち上げ当初から関わらせていただいているIntegratedDanceCompany響-kyoの公演です。
お時間ありましたら是非ご来場ください。今回はダブルビル公演で、全く違う毛色の2作品でお楽しみ頂けるかと思います。
コチラでご予約承ります。

IntegratedDanceCompany響-kyo 第4回公演

【日程】
2017年2月18日(土) 18:00開演/19日(日) 15:00開演

【会場】
東京芸術センター ホワイトスタジオ http://www.art-center.jp/tokyo/



【料金】
[一般]
前売3,000円(当日3,500円)
[学生・障害者割引]
前売2,500円(当日3,000円)
*当日学生証、障害者手帳をお持ちください。

*日時指定・全席自由 
*障害者介助の方1名のみ無料
*学生・障害者割引はクリエイティブ・アート実行委員会でのみ扱います。

詳細はコチラをごらんください。 


さてさて前置きが長くなりましたが…


先日NPO法人芸術公社の主催するシアターコモンズのパスカル・ランベールWSに3日間参加してきました。
都市をみる/リアルを記述する」 というWSタイトルのもと、現実や日常生活のリアルをいかに作品として再構築するか、を実践しました。
初日の自己紹介、2日目の街を歩き、採取するフィールドワークを通して、現実世界のなんと豊かなことか、面白いことかを再実感。
もうね、センサーを張り巡らせて街を視て、聴くと、作品作るのが虚しくなるくらいに現実というのは面白すぎるのです笑
そういった面白い現実をどう「リアル」として再構築するか、それをWSを通して実践していったわけですが…

話はちょっとズレますが、個人的には「現実」と「リアル」という2つの言葉は分けて考えています。
普段の会話でも「リアルだね」という言葉の使い方は、既に虚構を前提としていると思っています。
(完全なる現実ではない、現実の再現=リアル)
なんかそのへんのことは昔F/Tの劇評コンペで書いたなー、て思いながらDIGってみたら出てきました、自分の
興味ありましたら読んでみてください、と。

戻りまして、そんなWSを通して思ったことは、「ダンス」を「リアル」として再構築するということは日常生活の異化なのだろうということ。
チェルフィッチュの身体性とか、そうゆうことなんだろうな、て思います。
日常的な身体を日常空間から切り離して舞台で異化する。
でもそうなってくると「ダンス」にとって劇場も、舞台も必要ないのかもしれないなー、と思ったりもするわけです。
つまり、よく身体ひとつあればそこは劇場だ、みたいな言葉はありますが
それは実演者にとってだけではなくて、観る側にもいえることなのだと思うのです。
現実の中に、日常生活の中に物語を、「ダンス」を見出す態度。
それはある種の劇場的な身体と言えるんではなかろうかと。
その「ダンス」を見出す生活態度があれば日常の中に「ダンス」はいくらでもある。
そんな視点を持っていれば…



これも「ダンス」やし



これも「ダンス」なんですわな。

そう考えちゃうとねー、「作品」作るのってなんか虚しくなってきちゃうなー、と。
だって現実に起きていることの方が豊かで、面白いんですもの。
だから「作品」を作るのなら、徹底的に虚構でもいいのかもな、て思ったりします。
これ以上誤摩化しの利きようの無い、身体というものすごい「現実」を使っているのだから、それで十分なのかもしれないですよね。
今まで過ごしてきた逃れられない時間の、食べたもの、経験したもの、その全ての積み重ねであり、装えば見抜かれる、噓の無い身体。
だから身体は偉大なのです。

色々と考えさせられた、いい3日間のWSでした。
不貞腐れずに「作品」を作ることを頑張りたいです。

あ、追記になりますがドネーション制のWSというのが画期的というか新鮮でした、自分の価値観を問われているような感じもして。
そして財布事情も問われているような感じ笑
公演や企画を打つのにクラウドファウンディングをする、と言うのが最近チラホラ出てきていますが、
ドネーション制っていうのもアリなんじゃないかな?て最近思っていたのでそのへんも興味深く。

色々と激動の時代になってきましたから自分の「価値観」というものを問いただしてみるのはいいのかもしれないな、と。

2017/01/24

3割打者がスゴい。

気がついたら1月も終盤。
はー、こんな感じで2017年もどんどん過ぎていくのでしょうね。
でも逆に最近過ぎ去ったことも振り返ってみるとずいぶん前のことの様に思たりして。
時というのはF1のレーシングカーみたいなイメージなのかもな、て最近思います。過ぎ去る目の前の瞬間は最高速度で、
過ぎてしまえばアッと言う間に遠くに行ってしまう。
物理的な感覚と似ていて、遠くだとそんなに速く見えないけど近くだと速い、みたいな。

前置きとはとくに関係なく。

ことあるごとに炎上するキングコングの西野さんの、最近話題になりました「お金の奴隷解放宣言」。
モノづくりに関わる人たちが色々なリアクションをするの、よくわかります。
西野さんの言うことはよくわかるし、現に本の売り上げも伸びているわけだからプロモーションの一環として
考えればいいんじゃない?と思いました、個人的には。
やり方として上手い、というか現代だから出来るやり方だろうし、今後似たようなケースは増えてくるだろうと思う。
フリーミアムっていうんだってね、ブログに書いてあったけども。
ただこうゆう捉え方はもちろんあるし、 中村祐輔さんが言う様に お金と職業としてのクリエーターの距離感を考える必要は
あるんだろうな、て。
距離感の取り方に失敗したり、あまりにそれに慣らされてしまうとこうなったりするし。
アーティストやクリエーターは慈善事業でやっているわけではないので。趣味でやっているのなら別ですが。
結局ね、お金をもらえないとそのことに一番時間を注ぐことが出来ないのですよ、生活があるから。
逆に言えば時間を捧げていることをマネタイズする必要があるのかもしれないけど。
ライフワークとライスワークで分ける、という考え方もありますが、それは個々人の考え方だし。

とまぁこのゴタゴタを見ていて思ったのは、モノ(実物)ではない表現では何が可能か?ということ。
そんなことを思っていたらちょうどこんなTweetがTLに。





なるほどなー、確かにその通りだわ。
打率3割がスゴい、みたいなことですね。わかる人=安打数だとして、分母を増やせばいい。

ではどうしたらいい?

思うに「ダンス作品」と「ダンス」を分けて考えることと、「劇場」と「ダンス作品」を分けて考えるべきなのかと。
「ダンス」はもっと気軽に見れたらいいし、もっと気軽に踊れたらいい。
恋ダンスがものすごく広まったのは気軽に見れたし踊れそうだったし、てことだと思う。
で「ダンス」に興味を持ったら、お金を払って「劇場」で「ダンス作品」を観るのだと思う。
だったらまず「ダンス」に興味を持ってもらえる様に、「ダンス」という球を沢山投げ続けないといけないのだ。
前のブログでも書いた様に発表の場はなにも「劇場」だけではない。
「ダンス」を知ってもらう、興味を示してもらう必要がある。
だっていきなりチケットのお金払って劇場に行って作品観るのって、ものすごいリスキーだしハードル高いもん、普通に考えて。
ミュージシャンでいえばライブに来てもらうことな訳だから、そのきっかけであるCD的なポジションを「ダンス」でどう設定できるか。
最近興味あることはそうゆうことなのかもしれない。
作品を説明することとか、ネタバレについて考えることとか、そこに繫がっているような気がする。
Instagramに自主練の様子を載せるのもそれの延長だと思うし。

今年はそのへんをより意識的に活動してみようかな、と備忘録的に。
とりあえず炎上させたりなんだりしているヒマあったら球投げたり技術磨いたりしたりしたほうがいいと思うので、
地道にコツコツやります、自分は。

2017/01/07

踊りたいの?踊らせたいの?創りたいの?晒したいの?表現したいの?

お正月って三ヶ日とともに去る感、ハンパない。
七草がゆを食べるまでもなく、すっかり平常運転モードです。

今日はオフ日ってこともあったので朝からラジオ聞きながらダラダラ過ごしていたら
妙なことを思いつき、赴くままにTwitterに連投していたことや
3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を観に行って思ったことなどを
備忘録的にまとめとこーっと、ていうブログです、今回は。
ブログってまとめに便利だなー、て本当に思う。


今日朝起きて、とくに夜まで予定もないしボケーッとダラダラしていたら
突然脳裏にダンスとして架空の拳法を作り、その型を一子相伝の巻物に記して、
各流派がお互いに奪い合う、という謎のダンス作品のアイデアが。
発作的に思い浮かんだアイデアな訳だけども、呟きながらよくよく吟味してみると
バトル漫画やフィギュアの解説みたいにすごさを解説してくれたり
すごい感を醸し出してくれたら見やすいというか、いいのかもね、と。
ネタなのかガチなのか、皮肉なのかわからないけどこうゆうのもあるし↓
https://www.youtube.com/watch?v=YVFPbteyPNM

思えば「少年チャンプル」やダンス甲子園がダンスの流行に一役買っているから
「バトル」という要素は多数にアクセスしやすい。
勝敗をつけるとか、点数化するということの弊害はさておきなのだけどもね。
でもいわゆるコンテンポラリーダンスってやつはみんな違ってみんなイイ、
という部分から発している部分もあるので勝敗を付けるのが難しいわけだけども。
個人の趣向に寄るところが大きいし。
だから業界、として成り立たせるのが難しいんよね、そもそも。
業界を生成しにくいから大きな物語(≒レール)が無い、良くも悪くも。
コンペティションで賞を取ったらゴール?教育機関で教える様になったらゴール?
海外に作品を持っていけたらゴール?
どれもゴールのようで、スタートのようでもある。
いつまでたっても各人がそれぞれの独自性を貫く感じ。
それぞれが「個(孤)」だから。

でも流行廃り潮流みたいなものはあるし、
コンペティションで賞を取る人もいるわけで。


そんなこんなを思いつつ、3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を。
思い巡ったことはなぜみんな作品を創るのだろう?ということと
劇場で作品を上演することについて。

踊る場所・機会が無い、踊っていくための焦り、が
作品を創る動機になっていないだろうか?
作品を創るのは自分が表現したいことがあるから?創りたいものがあるから?
1年に新作1つは作品を創らないと、ていう妙な義務感?
実際出場者の方々の胸の内は計り知れないので想像でしかないのだけど、
ダンサーの現状、ダンス界をとりまく現状などを思うと
そんな思いがよぎりました。
舞台の上でしか踊ることは許されていないのか?
人目に晒さないといけないのか?

そしてその発表の場は「劇場」が合っているのか?
ギャラリーにYoutube、いまや発表の場は沢山あるのだよ?
...いや、確かに「踊ってみた!」とかいっていきなりYoutubeで全世界に
自分のダンス晒しちゃう飛躍っぷりもそれはそれですごいと思うのだけど。
たしかに「劇場」は作品、表現に対して優しい、安全な場所だというのはわかる。
しかし一方でとてもバリアフルで、排他的な場所でもある。

そんなこんなが自戒も込めて頭をグルグル巡りました。
みんなどんな思いで「劇場」のために作品を創り、発表するのだろう、と。
思えば去年この「ダンスがみたい!新人シリーズ」で発表した
ソロ「be here」はそんなことも思いながら作品にしてたかもね。

帰りの電車で、
同じく新人シリーズを観に来ていたらしき見知らぬ3人組のおばさま方がいて、
感想を言い合っていたので盗み聞きしてみると、
やはり身内贔屓になるというか、身内への想像力ハンパないなー、と興味深く。
身内以外への想像力の欠如は民主主義の崩壊みたいです↓
https://t.co/C3UzXSJOEG (2017年2月6日まで)

話が脱線しました。

思い直してみて、大抵ダンスを観に行くときは身内が関わっているときです。
ダンスに限ったことではないですが、全く知らない人の作品を観に行きたい、と
思えないのがひとつの問題なのだよな、と。
たまに観に行くとしても口コミや話題性を糧にするわけだし。
そこを解決するのが評論家という方々の仕事だと思うワケだが、
批評が宣伝になってしまってはダメだし、実際日本の舞踊評論はゴニョゴニョ...

先程も述べた様に、ダンスは「個(孤)」なモノ。
とくに(日本の)コンテンポラリーダンスは多様性を出発点にしている、と言える。
だから「ダンス、どれから観たらいいですか?」てすごい難しい質問だし、
多様すぎるダンスのどれを入口にするか、
てそのあともダンスを観てくれるかどうかに関わる大きな問題。
個人的にもダンスの宣伝をするのを憚られたりするのはその部分。
こうゆう趣向の人にはこのダンス、という薦め方はできるけど、
そんなにみんな自分の「目」を知っているか、つーとまた別の話だし...


色んなことに思い巡りました、ホント。


でも自分を顧みて
ワクワクするアイデアや楽しい、ていうのがあるから作品作っているな、と。
そこは大事にしていきたいと思ったし、やれることはやろう、と思いました。

もうちょっと書きたいことはあったのだけど、
今日の話とは上手く繫がらないというかまとめる自信無いっていうか、
もう寝たいので寝ます。

2017/01/01

ス。






















あけましておめでとうございます。
旧年は大変にお世話になりました、と言いますか
駄文にお付き合い頂きありがとうございました。

今年は2017年。
"2017"は素数です。"2017"の"2"と"1"と"7"も素数です。
"0"に関しては…素数なのかはよくわかりません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352181478?__ysp=77yQIOiHqueEtuaVsA%3D%3D
http://media.qikeru.me/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B00/
こんなことも書かれているの、よくわかりません。

そんなことは置いておきまして。
"2017"は素数なので、皆様の2017年が素敵な、素晴らしい年になりますように。

と、きれいに冒頭を締めようかとも思うのですが
年賀状の印刷するためにデータをコンビニで出力するも誤字脱字を発見したり
色がきれいに出なかったりで光沢紙印刷を自宅と行ったり来たりしながら
3回も繰り返すという、ね。
そんなに苦労して印刷して書こうとしている年賀状も
業界的になのか世代的になのか、数が両親と比べて圧倒的に少ない、
というか元旦に届いたのは美容室からの1枚だけでショボーンとしてますが。

そんなすべり出しの2017年。

さて、2017年の話をする前に、2016年を軽く振り返っておこうかと。


年間を通してありがたいことに様々な作品に関わらせていただきました。
2016年を終えてみて思うことは
「ダンス」はもっと自由でイイ、ということ。
劇場という空間に、60分というパッケージに落とし込まなくてもイイ、
もっと自由であるべきだ、ということ。

逆に言えば劇場という空間に何を求めるのか、何を求めているのか。
劇場のプロセニアムアーチ のことを額縁、と言う様に
劇場の作品に私たちは価値や作品性を求めるのだと思います。
この辺りは2016年6月のブログでも触れていて、今自分でも読み返して
ほー、なるほどなー、と思ったりもします。

小劇場の置かれている状況みたいなことについて
2016年の新作ソロ「be here」や
大人少年「現代劇作家シリーズ5:J.P-サルトル『出口なし』フェスティバル」で
お世話になったd-倉庫の林さんが文章でまとめていたりするのですが
劇場に持ち込んで作品化する、ということにある種抵抗みたいなモノが
生まれているのかもしれないなぁ、と思ったりもします。

作為性や演出、物語性が疎まれるような。
リアルや本当である、ということばかり作品に求めているのかもしれません。
まぁ現実的な話をすると予算的に難しい、てことなのだと思いますけどね笑

そんなことを思ったりしましたので、
劇場で作品やるならガッツリ「作品」 という感じのことをやるべきだな、と。
2016年はソロしか作っていなかったので今年は作品作りたいなー、て
思っています。
でもそれも上演作品に限らず、映像でもいいのかも、と思っています。
さっきも述べた様に「ダンス」はもっと自由でイイ、ですし。
劇場で作品やるなら「ダンス」ということにこだわらず、
もっと総合的な作品として作り上げられたらいいな、と。

なんかねー、最近はもう「ダンス」がどうのこーのっていうことより
ダンスや身体という方法論を、ベースを使ってなにかする、
ぐらいのざっくりした感じでイイ、と思っています。
それは作品を作ることに限らず、環境づくりとかでもいいのかもしれないし。
コンテンポラリーとかヒップホップとかバレエとか、
ジャンルでぐだぐだ言うのも面倒くせーや、てな感じです。

はい、突然口調が悪くなったような気もしますが...

そんなこんなで2017年の目標は「変化」と「挑戦」にしようかと思っています。
なにかと移ろいゆき、不安定で、先行きの見えない現代ですが
その変化に対して柔軟に、迷いながらも清濁併せ飲み
サバイバルしていきたいです。

このような感じで、相変わらずのペースでやっていきますが
本年もよろしくお願い致します。

2016/12/08

キミは天王寺ガール。



ライブver.はエモーショナル過ぎるが、いつかこの曲で踊りたい。
しかしながら、この曲は女の子が踊った方が圧倒的に、イイ。 残念。

師走ですねー、気がついたら。
最近は年末踊り納め公演のリハーサルと、年末に加速する仕事の忙しさの中
マイペースにいつも通りやっております。
年末踊り納め公演の詳細はコチラ。個性的なメンバーが集まっていて、面白いです。
年末のお忙しい時期ではありますが、お時間ありましたら是非。ご予約承ります。


昨日まで3日間のスザンヌ・リンケのWSに参加しておりまして。
一晩明け、バイトのアイドリング時間に色々思考に耽って思ったことを備忘録的に。


ドイツ表現主義舞踊の流れを汲み、ピナ・バウシュらと共に現代ドイツの舞踊表現を
牽引してきたスザンネ・リンケが16年ぶりに来日。
で、その方のWSということでどんなことをやるのだろう、とワクワク。
して向かったのですが、内容としてはひたすらに身体に関するワーク。
もっと感情的なことや獏としたことに取り組むのかなー、となんとなく思っていたので
予想外に思いながらも、ワークを受けていくうちにフムフムなるほど、と。

ダンスというか、身体表現である以上、身体がモノを言う、ということ。
つまりはどれほどの鍛錬が積まれているか。
以前鈴木ユキオさんの作品に出させていただいたときに仰っていたのが
「ダンスの身体」があればいい、ということ。
なんてことないことをするのであっても、「ダンスの身体」があればいい、
というようなことを仰っていて、そのことを思い出しました。
日々の、鍛錬の、思考の積み重ねとしての身体は魅力的で、最早それがダンス。
そうゆうことなのかもしれません。

あとそれとは別に思ったことは
いわゆるダンスムーブメントではなく、身体に意識を置く系のダンスを
雑に舞踏系とカテゴライズするとして、舞踏系の人ほどバレエをやるべきなのかも、
ということ。
何世紀にも渡る身体に関する蓄積はハンパない。
ゼロからやるよりそれを利用させてもらったほうがより深みにたどり着けるのでは?
先人の賜物は利用させてもらう、変な意地は張らずに。
ゼロからなんでも生み出せると傲慢にならない。
意地張って稽古場で独り悶々とするくらいなら、
畑を裸足で、鍬で耕した方が得られる身体があるはず。

そんなこんなを思ったり、でした。
思うに日本のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるものは他の国に比べて
既存のダンスへのカウンター感が強いというか、テクニックを軽視しがちというか
ダンスをジャンルで囲うことでステレオタイプに見なしがちというか…
その中にいるとそのステレオタイプにハマりにいこうとする気もするし。
結局島社会的なんですよね、島国だけに!
…まぁそんなことを思うわけですが、貪欲に清濁合わせ飲んで頑張ろ−、と改めて。


スザンヌ・リンケに関してはF/Tのこの記事に載ってますー
読んだのはつい先ほどだけど、フムフムなー、と。
それにしてもスザンヌ・リンケ、すごい人だった。
耳に補聴器入ってるッ!!御年72歳!?とは思えぬ姿勢の良さ、動きっぷり。
そしてチャーミング。愛嬌って、大事だ。