2020/12/31

みんな大好きPriceless。

気がついたら12月31日になっていました。
ありがたいことに色々と忙しく活動し続けることができ、無事2020年を終えられそうです。

2020年、大変な年でしたね。

自分が身を置く舞台業界は壊滅的な打撃を受けたと言っても過言ではないでしょう。イベント仕事もググッと減り、しかし一方で新しい道を模索しようとすることもできた一年でした。

不要不急、と言う言葉をよく聞く一年でした。
そんなことはハッキリと定義できるものでもなく、しかしながら自分の生活はほとんど不要不急と言われるものばかりでした。
不要不急の逆は必要火急、と言ったところでしょうか。しかし簡単に分別できるものでもなく…なんともモヤモヤした言葉です。そんな中、先日新聞で不要不急、必要火急で分けるのではなく「大事なこと」が何なのかを考えようという記事を読んで腑に落ちました。
「大事なこと」は個々人で異なる、しかしそれは自分自身で考え向き合うこと。それ自体がこのご時世大事なこと。他人にとって世間にとって不要不急でもあなたにとって「大事なこと」ならそれはそれで大事にしなきゃいけないです。そこは揺るがずに貫いていきます。

さてさて、先日22日のグレートコンジャンクションを経て、土の時代から風の時代に入ったそうです。物質の時代から精神の時代へ入る、らしい。だからと言うわけではないですが、個人的には干支4周目に入るので来年は「継続と変化」をテーマに頑張っていきます。

みなさま良いお年を。

2020/07/23

枯れ続けるケ。

緊急事態宣言が明け、およそ2ヶ月弱。
日々新規感染者は増えて緊急事態宣言下のベストを大幅に更新してますが、緩みきった自粛は戻らず。
社会は回り続けています。
個人的には自粛はもはや難しいのでしっかり検査体制整えて体調不安な人がしっかり検査受けられる状態を維持し、感染者を悪者扱いせずに社会を回していくのがいいんだろうと思っています。

実はこのブログでは一切触れてませんでしたが、7月頭に久々(およそ5年ぶり)に自主公演やってました。
創作過程なども含めたサイトがこちらです↓
https://otona-shonen.com/distance/

「新しい生活様式」とやらをとりいれながらも映画館、劇場、スタジアムなど各種動き始めていく中、「新しい生活様式」またそれに基づくガイドラインは個人的に受け入れ難い部分があります。とくに上演芸術に対して出演者にもフェイスシールド、マスクを要請(と言う名の半ば強制)をすることに対して。
なんと言うか…それがやりたいのか?と正直に思ってしまいます。
マスクやフェイスシールドはいくら感染拡大防止策とはいえ、表現上余計なノイズだと思います。そのノイズを受け入れることは易々と「表現の自粛要請」に従っているのでは、と。
普段なら「表現の自由」ということに殊更敏感な界隈が随分と大人しく「表現の自由」を侵害されることを受け入れていませんか?
演出にうまく取り入れてたね!とか気にならなかった!とか、そうゆう話でもないような気がして。その方向性になるとコロナ禍なのに頑張った、という下駄を履かせられた感が拭えない。実際先日の自分の自主公演もそういった感想が多くなりがちだったので。
創った側としてはそこを超えたい欲はありますね。


話が脱線しました。
と言うよりもここから本題。


先日Twitterにてこのような記事を見まして。

ザ・インタビュー「31字に込められたホストたちのコロナ対策」
https://www.designstoriesinc.com/special/theinterviews_maki_tezuka/

非常に良いインタビューだったので備忘録として。
という部分と記事内の下記部分が非常に心に残ったので。

繁華街の魅力って刹那的な一瞬の酩酊だとか、社会で理性的に生きている時間から逸脱した場所である価値だと思うんです。 

これは「夜の街」と変なレッテルを貼られてしまった繁華街に対しての言葉なのですが、
劇場やライブハウス、上演文化に関わる場所にも当てはまることだと思います。

つまり「非日常」を提供する場所としての価値。

あまり詳しくはないのですが、「ハレ」と「ケ」という言葉があります。

「ハレ」…儀式や祭り、年中行事などの非日常
「ケ」…日常生活

日常生活の「ケ」はルーティンワークであり、エネルギーが徐々に目減りしていきます。
エネルギーが枯渇していくことを「ケガレ(ケが枯れる)」
そのエネルギーを回復させるのが「ハレ」
というような日本的世界観だそうです。

劇場も繁華街も「ハレ」の場です。

そこへ「ケ」と化したマスクやフェイスシールドを持ち込むこと、感染拡大防止のために口うるさく注意お願いをすること。
このことが「ハレ」の魔力を失わせてしまうように思います。

誰も感染拡大したいとは思っていません。
施政者は大したこともしない、自己責任な空気を醸し出します。
しかし自己判断すればいいのだとも思います。
無責任で無能な政治家に自分の自由や生命の責任や安全なんか託したくないというのは正直なところ。ゼロリスクを煽り疑心暗鬼や不安を増長する、そんなヤツらの言うこと聞いて日常を破壊されるのはまっぴら。

最近はそう考えるようにしています。

とはいえ別に蛮行に走るわけでもなく、ただ今まで通りの生活を続けるだけなんですけどね。
もちろん人混みではマスクしますし、毎日検温してますけど、自分の中のガイドラインに従っています。
「新しい生活様式」なんて糞食らえだ。
枯れ続ける「ケ」が続く中で、「ハレ」すらもその魔力を失ってしまうわけにはいかない。
そのことをパフォーミング・アーツの端っこでもがき続けます。

2020/05/23

たかが「自粛」然れど「自粛」。

非常事態宣言から早1ヶ月、そーりからイベント等の自粛要請が出て早3ヶ月弱。
まもなく非常事態宣言も解除されそうな雰囲気が出てきていますが、個人的には表現の世界において暗澹たる思いがあります。
コロナ禍を経てソーシャル・ディスタンス(フィジカル・ディスタンス)や三密という言葉生まれ浸透していきましたが、それが表現にとって足かせになるのではないかと危惧しています。

劇場などのガイドライン都主導のアーティスト支援プログラムの対象作品条件などを見ていると、表現の自由のことを考えさせられます。コロナ以降はコロナ以前の様な表現は避け、自粛するべきなのか。
例えばエログロなシーンは昔からありますが、それがそのような行為を助長しているのかどうか?それと同様に身体的密着度の高い表現やいわゆる三密と呼ばれる表現が感染拡大を助長していると捉えるのか?
表現の自由というのは事ある毎に話題に上るものですし、それこそ去年のあいちトリエンナーレでは相当吹き上がった話題です。表現者にとっても鑑賞者にとっても大事な話題なはず。しかしこのコロナ禍という現状、思った以上にその話題が吹き上がる事なくずいぶんあっさりと表現を「自粛」し、表現の不自由を受け入れてしまっている様に思います。自分自身そのことに違和感を覚える様になったのはここ1〜2週間だし、「革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談」のニコ生の影響は非常に大きいのだけど。
コロナ禍に伴う感染拡大防止という正義の名の下の「自粛」、それは表現への「自粛」にも繋がっているのにあまりに無自覚にアーティストは受け入れちゃってるのでは?表現の自由云々の話題になるときは普段ならもっと吹き上がるのに、今回は「自粛と補償はセットだろ!」という方向にばかり話が膨らみすぎたというか。
ていうかアーティストなんて元々河原乞食みたいなもんだからそもそも何に殉ずるの?みたいなことでもある気がしている。もちろんお金は大事ですし、人のスキルや創作物にお金を払う文化は大事だと思っています。助成金に依存し続ける様な形じゃ早かれ遅かれ芸術文化は死に絶えるだろうし、その程度で死に絶えるんならその程度だし、その程度にアーティストが芸術文化を堕したのだとも思います。

表現は時に人を傷つけるし、必ずしも受け入れられるものとは限りません。その中で表現者は表現する責任を負って、それでも表現するか否かはその手に委ねられている。表現の自由ってそうゆうことなのでは?だからアーティストの美学や信念、哲学が宿るのではないんですかね?
だからコロナ禍になったからマスクつけて新しい表現の模索を!とかソーシャルディスタンスを保った上で新しい表現が生まれるのでは?とかリモートならではの表現を!ていうのもわからなくもないんですけど、自分の信念に沿って表現したいことに最も適した表現方法を選んだらいいんじゃないかと思っています。コロナだなんだって意識しなくても残念ながら私たちの意識はコロナ以前には戻れないわけで。それは311でも十分経験してるわけじゃないですか。


以前とは同じ様には観れないと思います。


感染拡大防止の観点から〜〜な表現は避けてください。

この状況下ではすんなりと受け入れられる文言だと思いますが、少し立ち止まって考える必要があるのではないかな、と思っています。そこは自覚的に「自粛」するのか。そこに自覚がないのであれば、表現はいずれ死ぬと思います。
そのうち〜〜な表現を含んでいるものには助成金出せません、みたいな話にもなってくる様な危惧もあります。その時になって初めて「あれ?」と思うのでは遅いでしょう。
今から違和感を感じていたい。


まだ「自粛」で済んでいます。たかが「自粛」です。でも然れど「自粛」です。


2020/04/06

越境。

4月です。仕事がボッコんボッコン無くなって健康的に引きこもっています。
これからはポストコロナの時代になるんでしょうね。
第二次世界大戦レベルの出来事なんだろうなぁ、と起きていることの重大さと
身の回りの生活の変わらなさ、そのギャップに心が追いついていないのか
はたまた諦めがついているのか、随分と穏やかに過ごしています。

ポストコロナの時代。

SDGsとかが叫ばれているけど、自然との関わり方をちゃんと考える時代に入っていくんじゃないかな、と思いました。
前から薄々と思っていたことではあるのですが、↓の記事を読んで尚更。

https://synecoculture.org/blog/?p=2640

2月くらいからウチの猫が腎不全を患いまして。
一時はもうダメかな?と感じるような時期もありましたが、自宅輸液などで多少持ち直しヨタヨタしながらも日々日向ぼっこしたり、寝たりしています。
この小さな命を延命させるか否かも飼い主の判断次第なんだな、と。
しかし果たして本人(本猫?)は生きたいと願っているのか?苦しくないのか?
去勢して家族として迎え入れ、死を目前にした時も飼い主の心情如何で延命させられ続ける。
人間てなんとも傲慢なものだなぁと鬱々とした日々もありましたが、ベランダで何をするでもなくただ日向ぼっこを気持ちよくしている姿を見るのは美しく、自分の寂しさをごまかさずにあれ、と思うのでした。
生産性や有益さや価値がなくたって、生きていてほしい、在ってほしい。

無価値の価値。
今回のCOVID-19騒動で思わされています。

ポストコロナの時代。

多分一つの境を超えて、それはもう戻れない境のように思えます。
それは9.11だったり3.11だったりと同じで。
これからそんな時代を生きていく上で、無価値の価値、考え続けて生きます。

2020/03/11

肉を切らせて骨を断て。

久々に、ホント久々にブログでも書いてみようかと。

今日で9年でしたね。
今年はなんだか3.11ということを強く意識させられているように思います。
やはり夏に「復興」五輪を控えているからでしょうか?
来年で10年だということに途方のなさのようなものを感じたりもします。

ブログはアーカイブ的な機能もあるからいいですね。
毎年この日にブログを更新していたのを見返していて、面白かったです。

右膝の手術前日がちょうど3.11で、今年で術後6年だそうで。
それなりにダンサーとしてキャリアを続けてはいるものの、COVID-19騒動で
バタバタと公演やイベントが中止になる様子、窮する我が身、界隈を見るに
なんだか芸術とはなんぞや?そして芸術で食べていくとはなんぞや?と鬱々。
食べていく、とかそうゆう視点じゃないのかもね、やはり。
そんなことは去年のあいちトリエンナーレ騒動のあたりから思ってはいます。

だったらなんで続けているんだい?というのを最近考えていまして。
やりたいことは「文化を耕す」ということなんだろうなと思い至りました。
例えばそれは芸術文化だったり、各々が自分の「目」で見て自分の「頭」で考える文化だったり、
製品ではなく人の能力やキャリアを尊重してお金を払う文化だったり、様々ですが。

漠然と、途方も無いミッションではありますが、いろいろ自分の出自を振り返ってみて
腑に落ちたのでそうゆうことなのだと思います。


うん、3.11関係ない内容になった笑


でも直接的な被災者ではないけど、毎年考える機会をくれるし、ブログ書くきっかけだし
関係なくは無いんですよね。
被災者では無いけど、当事者、なのでしょう。

正直マジ3月の出演イベントも吹っ飛んだし、バイトの現場も悉くトンで仕事0状態で
軽く無気力状態で月末の支払いとかどーすんの?と軽く無気力に陥っていますが、
昨日は乙女座満月とやらで星の並び的にこれから良くなっていきますよー、てことらしいので
ほんじゃまぁ鬱々としていてもしょうがないからやったらぁ!と自分を鼓舞していこうかな、
と2020年の3月11日に思っていました、という記録です、これは。

踏ん張りどころだ、頑張れ、俺。
頑張ろうぜ日本。

やるしか無いのだ。生きているのだから。
Show must go on...No, Life goes on.


東日本大震災発生から9年

死者数    15,899名
行方不明者数 2,529名

(警視庁まとめ 2020年3月10日現在)