2016/12/08

キミは天王寺ガール。



ライブver.はエモーショナル過ぎるが、いつかこの曲で踊りたい。
しかしながら、この曲は女の子が踊った方が圧倒的に、イイ。 残念。

師走ですねー、気がついたら。
最近は年末踊り納め公演のリハーサルと、年末に加速する仕事の忙しさの中
マイペースにいつも通りやっております。
年末踊り納め公演の詳細はコチラ。個性的なメンバーが集まっていて、面白いです。
年末のお忙しい時期ではありますが、お時間ありましたら是非。ご予約承ります。


昨日まで3日間のスザンヌ・リンケのWSに参加しておりまして。
一晩明け、バイトのアイドリング時間に色々思考に耽って思ったことを備忘録的に。


ドイツ表現主義舞踊の流れを汲み、ピナ・バウシュらと共に現代ドイツの舞踊表現を
牽引してきたスザンネ・リンケが16年ぶりに来日。
で、その方のWSということでどんなことをやるのだろう、とワクワク。
して向かったのですが、内容としてはひたすらに身体に関するワーク。
もっと感情的なことや獏としたことに取り組むのかなー、となんとなく思っていたので
予想外に思いながらも、ワークを受けていくうちにフムフムなるほど、と。

ダンスというか、身体表現である以上、身体がモノを言う、ということ。
つまりはどれほどの鍛錬が積まれているか。
以前鈴木ユキオさんの作品に出させていただいたときに仰っていたのが
「ダンスの身体」があればいい、ということ。
なんてことないことをするのであっても、「ダンスの身体」があればいい、
というようなことを仰っていて、そのことを思い出しました。
日々の、鍛錬の、思考の積み重ねとしての身体は魅力的で、最早それがダンス。
そうゆうことなのかもしれません。

あとそれとは別に思ったことは
いわゆるダンスムーブメントではなく、身体に意識を置く系のダンスを
雑に舞踏系とカテゴライズするとして、舞踏系の人ほどバレエをやるべきなのかも、
ということ。
何世紀にも渡る身体に関する蓄積はハンパない。
ゼロからやるよりそれを利用させてもらったほうがより深みにたどり着けるのでは?
先人の賜物は利用させてもらう、変な意地は張らずに。
ゼロからなんでも生み出せると傲慢にならない。
意地張って稽古場で独り悶々とするくらいなら、
畑を裸足で、鍬で耕した方が得られる身体があるはず。

そんなこんなを思ったり、でした。
思うに日本のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるものは他の国に比べて
既存のダンスへのカウンター感が強いというか、テクニックを軽視しがちというか
ダンスをジャンルで囲うことでステレオタイプに見なしがちというか…
その中にいるとそのステレオタイプにハマりにいこうとする気もするし。
結局島社会的なんですよね、島国だけに!
…まぁそんなことを思うわけですが、貪欲に清濁合わせ飲んで頑張ろ−、と改めて。


スザンヌ・リンケに関してはF/Tのこの記事に載ってますー
読んだのはつい先ほどだけど、フムフムなー、と。
それにしてもスザンヌ・リンケ、すごい人だった。
耳に補聴器入ってるッ!!御年72歳!?とは思えぬ姿勢の良さ、動きっぷり。
そしてチャーミング。愛嬌って、大事だ。

2016/11/10

さよならアメリカ、さよならニッポン。


アメリカの新大統領、トランプ氏になりましたねー。
どっちもどっちだ、みたいな話もありましたがイギリスのEU脱退に続き
世界全体としてなにか不穏な方向に向かっている感がありますね。
それは日本もご多望に漏れず、という感じで。

今日ラジオを聞いていて納得したのは、トランプの話は政策ではなく感情で訴える、
だから多くの人に響いた、という話。
感情で訴える、と言うと聞こえのいい様に思えますが
感情ていうのは誰しもが持っているもので、ある意味わかりやすい。
そして抗い難い、抗えない。だからそこを刺激する。

聞いていたラジオは「荒川強啓のデイキャッチ!」だったのですが
印象に残ったのが次のような話。

近年話し言葉の威力が強すぎて、書き言葉の力が弱くなっている。
いわば荒っぽい、感情的な本音のような言葉が
理性的な、知性の言葉を押え込んでいる。
…あー、なんかすごく頷けるなぁ、と。
「ぶっちゃけ」という前置きや噓のない(様に思われる)感情をむき出しにした言葉が
好まれているということなのでしょう。
冷静な、客観的な、温度の籠っていないような言葉よりも。

でも感情に、衝動にすべてを任せる、ということはとても危険なことだと思います。
そこを理性で制御しなければいけない。
別にそれは感情を蔑ろにするということではなく、
むしろ感情を大事にすることに繫がるんじゃないかと思います。
前述したように感情の強いエネルギーには抗えないです。
理性で抑えて抑えて抑え込んでも、
納得できないくらいの感情こそ大事にすべき。


感情的じゃない人間なんていないです。
それが制御できるかどうか、それだけだと思います。

感情って素晴らしい、そのとおりです。
でも感情だけに流されると恐ろしいことだとも思います。
そんなことを大統領選の話をするラジオを聞きながら、思いました。


さーて、日本はどうなるでしょう?
どうなろうとも、サバイヴするする強さ、改めてそこを目指して。

2016/11/08

戦争反対という、幻。

最近ブログの更新頻度が多いですね。…ええ、ご察しの通りヒマなのですよ。
とはいえ、12月末に出演する機会も頂いたのでまたそのリハが始まるので
束の間のヒマを楽しみつつ。
パフォーマンスの詳細は後日お届けできるかと。

さて、今日は昨日Twitterでこのような連投を見まして。
以下まとめ↓(Twitterの新機能でモーメントっていうのできたんですね)
"三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員)記者のつぶやきより南スーダンの現状" 
https://twitter.com/i/moments/795265656597848065

この記事を読んで、そしてその日のTwitterのTLの出来事が重なり
戦争反対、ていうのはなんとも虚ろな言葉だな、と思いまして。

とても耳障りのいい、言葉。
なんの反論の余地もない言葉。
しかしながら、なにも実のない言葉なのかも、と。
本当にそう思っているのかい?ということが問われる言葉な気がしました。

現代の戦争は非常に複雑で、政治も多く絡んでいます。
つまり、戦争って政治的なことともいえます。
「アーティストには政治的な話はしないで欲しい」
よく聞くことです。
https://www.instagram.com/p/BMaGgxhhwRi/
でも戦争反対、というアーティストにはきっと迷いもなく賛同するはず。
「アーティストには政治的な話はしないで欲しい」と言うことが
そもそも充分に政治的だし、
戦争反対、と言うことも充分に政治的なハズ。
政治的な発言をするアーティストが必ずしも政治的な作品を作る必要も義務もない。
でもそのアーティストの魅力ということには繫がるかと思います。
それは別に政治的な発言に限らず、なにに興味を持っているかということもそうだし、
アーティストに限らずどんな人にも当てはまることなのだと思います。

戦争反対というのであれば政治のことも話せ、ということともまた違うのですが
戦争反対、というだけで戦争が無くなるはずもなく
戦争の現状に目を向け、微力ながらもできることがあるのであればする。
それはニュースに関心を向けることかもしれないし、
日々周りの人たちに優しくすることなのかもしれないし、
一見全く戦争と関係のないことなのかもしれない。
何事に対しても何かしらやれることはあります。
結果何も変わらないことももちろんあります。

それでもやれることはある。
そしてそれは自分で決めればいい。

簡単にいえば言行一致てことだと思いますが、大事だよな、と改めて。
言葉はいくらでも理想を紡げるけど、理想を現実にするのは行動。

そしてこの文章も言葉で綴られるのです。

2016/11/06

続・身体の親近感。

先日更新したブログ、追記的に。

今日F/T16のプログラム「X /groove space」を観てきました。
前売を購入しようとしたときには既に全日程売り切れ、という予想外の事態に
こいつぁ当日券ゲットしてでも観るべきなのでは?
と、勝手に自分でハードル上げて観てきました。

個人的な感想としては易しい観客参加型、という印象。
というのも、お世話になっているGRINDER-MANのパフォーマンスで
回遊型というか、観客参加型といいますか、 似たようなパフォーマンス
何度か出演した頃がありまして…
擬似クラブ的な空間で音、暗さで観客を扇動しグルーヴを生む仕組みは
上手いと思いつつも物足りなさや蛇足に感じてしまう部分もあり、
しかしながらダンサーの在り方を素敵だなぁ、と思ったり。
観客として完全客観的な立場で参加してみることで、過去の出演作品と比して
興味深く楽しめました。


で、改めて「ダンスを誘発するのがダンサー」という持論。

「X /groove space」にて目が合うと微笑み、独特のリズムで動くダンサーたちを
観ていてそのように実感しました。


やはりね、いいダンスを観ていると踊りたくなるのですよ。
これは自分がダンサーだからなのかもしれませんが、周りの観客を観ていても
同様な気がしたので、多分間違いないと思います。
良いダンスは、ダンスを誘発する。


そんな身体感覚をビリビリと刺激されながら思ったのは
知的障害の人たちとダンスする時、
彼らの目にはこんな風に自分たちが映っているのかもな、ということ。

躍動する身体を目の前にして
身体感覚が刺激され、身体が疼き、動き出す。
それはひょっとしたら身体の親近感が引き起こすことなのかも、と。
お互いに身体を拓きあい、共鳴する。
それは実は別に特別なことではなくて。

ダンスを踊る身体は同時にダンスを観る身体でもある、ということ。

まとめると、観る側の身体というのも大きく作品に影響するんだよな、と改めて。
観客参加型でも腕を組んで壁に寄りかかって「なに観せてくれんの?」という態度も
客席のない空間で座り込んで「観客」として頑に居座る態度も
ノリノリで踊りだす観客の態度も
どれもアリだけど、得るものは違うと思います。
どれが良い悪い、というより好みの問題になるのでしょうけど。

だからひょっとしたら劇場っていうのは建物のことじゃなくて
身体が持ち込む鑑賞の在り方、と言えるのかもしれないですね。
作品にもよるのですが美術館的に作品を楽しむ態度も取れるだろうし。
ダンスの発表会だとクラブみたいなノリの時ありますしね笑

そうゆうところも考えだすと、身体って奥深すぎて目眩がする。

2016/11/04

身体の親近感。

秋をすっ飛ばして、一気に冬がきたのかってくらいの寒波ですね。
地球温暖化の影響でいよいよ四季の国・日本も危ぶまれてきているのでしょうか?

気がつきましたら10月が終わっていまして、11月です。
最近本当に時間が過ぎるのが早いなー、て思いながらも
今年の上半期のことを思ってみるとずいぶん昔のことに感じる。
時間ていうのは自分に対して直線で向かってくるから
相対的に近くほど早く感じるのかな、とふと思ったりもします。

10月は振り返ってみると、「プロ」ということを色々考えさせられる1月でした。

実は10月の中旬は某バレエ団の学校巡回公演にスタッフとして同行してまして、
いわゆるバレエ団の方々の生活を垣間みたのですが…
あー、これがプロの生活だよね、と。
毎日バーレッスン、クラスをし、舞台に立ち、お金を得る。
磨き上げられた身体による超絶技巧はそれだけで観るに値する。
やっぱりプロに伴うのはテクニックなんだよなー、と。
テクニックがある=職業として成り立つ、てことなのだろう、と。

プロとしてやっていくにはテクニックがいる。

と、そんなことを思うのと同時に…

バレエ団の方々を見ていて思ったのは、一緒に踊れそうにないな、ということ。
いわばバレエダンサーとはバレエに生活のすべてを捧げ、
バレエのための身体に仕上がっている、常人離れした身体。
それ故の超絶技巧だし、観る価値のある身体。
一緒に踊るにはその「バレエ」の世界へ踏み入れないといけないような感覚。
実際はそんなことはないのだろうけど、
超絶技巧によって「プロ」というものが明確に分かるが故に、壁を感じさせる感覚。

それにたいしていわゆる自分が属する「コンテンポラリー・ダンス」という世界。

必ずしもあるテクニックに根ざしたものではない、
自由(といわれている)な表現の世界。

テクニックということが絶対ではない世界。
でもそれって逆になにを以てプロ?とも思う部分。

もちろん色々なテクニックがあるのだけども、
その明確ではない部分がコミュニティダンスという入口を生んだり、
ワークショップやアウトリーチといった部分へ繫がりやすかったりするのだとも思う。

誰にでも拓かれたダンスである、ということ。
それであるが故に、プロであるということが明確ではない、ということ。
技術に依らない、生活者としての身体の、ダンス。
だからこそ感じる「身体の親近感」みたいなモノがあると思っていて。
最近の興味はそこにあるワケですが。


とまぁ、色々書いてきましたがこれは「日本」の話だと思います。
海外のコンテンポラリー・ダンサーはめちゃくちゃテクニックあるし。
でもテクニックがある身体っていうのは普通の人から見たら親近感を感じなく、
ダンスをよそよそしくするものなのだろうな、と。

踊る阿呆に、見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損

そんな言葉があるように、やはりダンスは踊るものだと思います、個人的には。

ダンスとの距離感を埋めてくれる身体と
観るダンスのための身体。

プロとして成り立つのは圧倒的に後者の身体。
でもそれが果たしてダンスとの距離感を埋めてくれるのか。
テクニックは大事。
でもテクニックを積めば積むほどに観客の身体とは遠くなっていくのかもしれない。

なんとも興味深いなぁ、と思っています。
とりあえずしっかりテクニックは身につけたいものだ、と気持を新たにしたのでした。

2016/10/04

職業ダンサーか、生業ダンサーか、生涯ダンサーか

金木犀も香り始め、ジャズが聴きたくなるような涼しい夜ですが
明日は30℃超えるそうですよ…地球が危ない!
…のかどうかはわかりませんが。

昨日無事じゅんじゅんSCIENCE「街角」終了しました。
ダンス公演が都内でだだ被りの中、公演に足を運んでくださった観客の皆様
ベルリン流おもてなしのためにご協力頂いた当日サポートの皆様
公演を陰ながら支えてくださったテクニカル、制作スタッフの皆様、
ダンサー制作兼業だったあさよさん、そして振付家のじゅんじゅんさん、
ありがとうございました。


今回作品にお誘い頂いて、是非参加したいと思ったのにはいくつか理由があります。

もちろんじゅんじゅんさんの作品が好きだというのもあるのですが、
十条にあるGallery&CafeFINDで何度かやっている「NOTE」という企画を
何度か観に行かせていただくことがありまして、
助成金や劇場といったものに頼らず、自前のもので作品を提供するということや
お酒とともに作品を楽しむというカジュアルさ、
ダンスというモノを難しく考えず、気軽に楽しむというスタンス、
そういったじゅんじゅんさんの公演をする、ということへの考え方に興味があり、
共感を覚えるところがありました。

またじゅんじゅんさんが働きながらダンスをしているということにも興味があり。
この春からサラリーマンとして働き始めたじゅんじゅんさん、
もちろんとても融通の利く職場のようですが、働きながら踊る、ということ。
免許制度もないし、舞台ダンス業界でそれだけで食べていけている人など一握り、
そんな日本のダンサー事情において、プロとはなにか。
結局のところ本人の意識の問題だとは個人的には思う部分もありながら、
やはり「プロ」ということで一般的に認めてもらうにはそれで生計を立てているかどうか。
そういった空気感の中、ダンスをやめていく人は多いと思います。
でもそんな空気に囚われることなく、ダンスに真摯に取り組み、
続けていく方法はあるんじゃないかな、という気もしていて。

そのようなことにも興味を持ちながら作品に臨ませてもらいました。


作品自体もとても楽しく、そして最近自分が思っていたダンスとダンス作品の違い、
ダンスの面白さとはなにか?ということに挑戦でき、とても良い経験でした。
前回の記事にも書きましたが、 ダンスの空っぽさを確認できました。

個人的に興味があるのは身体と、その身体が紡ぐ関係性や物語性なのですが
ともするとそうゆうことをやろうとすると感情論や精神論が強くなる感があり…
そうゆうものを押し出しすぎると感受性の有無だとか人間性の問題みたいなことに
なるような気がしていて。
もちろんダンスをしていく中で育まれる感受性や人間性というものはあるのですが
全てそこに帰結してしますと、うーん、となってしまう。
そうゆう感情とか情緒や質感というものはもちろんある、
けれどそれをもっとテクニックというか身体のこととして扱えたらな、と。

話はズレましたが、それとはまた違った視覚的な気持ちよさ、リズムの気持よさ、
動きの面白さというのはダンスの醍醐味であって、
それに今回確信を持てたのが良かったです。


さてさて、今回の公演を通して色々見えてきた感じ。
ダンス作品を作るのか、ダンスをするのか、それは東京なのか、
ダンサーとはなにか、劇場とはなにか…
どれも繫がっていることの様に思うし、すぐにあーだこーだできることではありませんが
色々考えながらやっていきたいと思います。
年内はとりあえずもう作品の予定もないのでのんびり修行しながら。

2016/09/27

ただ、ただ、踊る。

えー、なんともビックリ。
前回から2ヶ月もブログ放置してしまいましたよ。
前回は連続で更新していたのにね…まぁ忙しかったのですよ、色々と。
2ヶ月の間に31歳になってしまいましたし。


あ、おかげさまで先週23日に31歳になりました。

今年もリハーサルでメンバーの方々に祝っていただきました。
30歳は「而立」
30歳で自分の足でしっかりと立ち独立独歩で学問の道を進む自信をもつそうです、
孔子先生曰く。
前にも書いた気がしますが、
30代を迎えていい意味で色々どうでも良くなったというか、
変にカッコつけなくなった感覚があります。
いまだに実家のお世話になっていますし、立派な社会人とは言い難い気もしますが、
それはそれでいいのかな、と。

自分のやっていることに自信を持って、頑張っていけば良い。
40歳までいけば惑わなくなるそうですし。

31歳も愚直に貪欲に、自信を持って頑張ります。


さてさて、そんなこんなの2ヶ月の間に一つ作品が仕上がりまして
明日から劇場入りであります。
今回参加させていただく作品はじゅんじゅんこと高橋淳さんの
じゅんじゅんSCIENCE
以前からソロをじゅんじゅんさん監修のもと作る企画だったり、
公演やクラスに行かせていただいていたのですが、ガッツリのクリエイションは初。
和やかな空気のなか、ピリッと集中するところは集中し、
共演するダンサーの方々も個性豊かで、良いクリエイションでした。

今回は純粋にダンスに挑戦しています。
演劇的な物語性やコンセプト、音楽に依ることなく
純粋に動きの面白さ、視覚的な気持ちよさ、それだけで作品として提示できるか。
とてもシンプルなだけに、ダンサーにとってはなかなかハードな作品でもあります。
しかしながら楽しく、ああダンスっていいなぁとか、
気持ちよい爽快感を感じてもらえるような気がしています。


リハを通して思ったことは、よくダンスをするうえで出てくる
「感情」とか「魂」とか「気持ち」とかっていうモノのこと。

「感情表現豊かなダンス」とか言われても…正直ピンとこなかったり、
その感情の部分担ってるの、実は音楽とか表情じゃない?て思うことも多々あるし。
なーんかダンスのことを語っているようで、すごく抽象的な言葉だよな、て。

前々から思ってました。

「魂のダンスッ!」とか言われても「はぁ…」と言う感覚はありまして。
もちろんダンスを観ていて言語化できない感覚で打ち抜かれることはあるし、
感情を強く揺さぶられることはあるのですが
さも有り難い言葉としてくっつけてドーンッと言い放ち、
これが理解できないのは感受性がないんじゃない?みたく悦に浸られても…
という感覚もあり、そうゆう抽象的な言葉で形容するのに違和感がありました。

リハをしていく中で、ダンスなんて空っぽなのだ、ということを改めて感じるわけです。
もちろんジェスチャー的な、意味を伴った動きもあるのですが
右手を前に差し出す、みたいな動きのひとつひとつに意味なんてない。
ただそれが連なり、重なり、ある文脈におかれることで意味を帯びてくるだけ。
だからもし、ダンスに感情や魂を感じるのだとしたら、
それは観る側がダンスに感情や魂を投影しているのだと思いました。

踊る側はただただ動きに意識を、意志を持って踊ればいい。
その空間に身体を置く、差し出す、差し込む、放り投げる…

突き詰めればそうゆうことなのだと思います。

こんなコト書くとね、
表現者としてなんて魂のないヤツだッ!
て怒る人がいるかもしれませんね笑
でもそんな抽象的な言葉を引き合いに持ってこないでください、て感じですし
実際にダンスを体験していただければなにか感じてもらえるんじゃないかな、
て思ってます。

ウダウダ色々書きましたが、面白い作品です。
通しの動画を観てて
「ウヒョーッ!」とか「キモチイイーッ!」てなる瞬間がいくつもあります。
意味も主張もないけど、
それは観客の方々が見つけてくれるんじゃないかと信じています。
「街角」というタイトルを聞いてイメージするものを裏切るようで、
それでいて「街角」を喚起させてくれるような出来になっています。

お時間ありましたら、是非!
公演詳細です↓

じゅんじゅんSCIENCE新作ダンス公演
「街角」


渋谷スクランブル交差点。驚愕と笑いで満ちた目でビデオを回す外国人観光客は、
あの風景に何を見るのだろう。
秩序。混沌。ドラマ。そしてたぶん、神様の振付も。
信号が変わるたび、向こうから歩いてくる人々の群れは緩やかに自分を包み、
そして後ろへ消えていく。それぞれが違う時間を抱えながらも、
この一瞬を何事もなかったかのように通り過ぎる。


演出・振付:高橋淳
音楽:山中透
出演:磯村奈未 小山柚香 長屋耕太 浜田亜衣 三橋俊平 久井麻世

こまばアゴラ劇場
2016年9月29日[木]~10月2日[日]
 9/29[木] 19:30
 9/30[金] 19:30
 10/1[土] 14:00 / 19:00
 10/2[日] 14:00
※各回開場は30分前 / 受付開始1時間前

【チケット】  
日時指定・全席自由 前売:3,000円 / 当日:3,500円

2016/07/13

挫折するほどに挑め。

な、なな、なんというブログ更新率の高さッ!
…言い換えればヒマなのですよね、きっと。

今日は大学同期で大人少年の「出口なし」にも出演頂いた、
石井卓真の所属する劇団SkyTheaterProjectの「君に決まってた」を観に。
複雑に絡まりすぎて中盤くらいから大丈夫か?と心配になるくらいの誤解と嘘が、
一気に解けて流れ込むのは観ていて心地よかったです。
三単一のような構成、デウス・エクス・マキナを思わせるドタバタなど、
古典のフレームの強さ、台詞のみならず身体が伴う演技も秀逸で、
とても面白かったです。
久々にしっかりとした、手放しに面白い舞台を観ました。
卓真も主役で、安心してみていられる存在感でした。


帰り道に自転車をこぎながら思ったのは、
最近実感としてもあるのですが、この年齢まで続けてみないと
わからないということって多分にある。
自分を顧みてみても、日々不安に駆られてマイナビのHP見ちゃったりとか
なにかボディワーク系の資格とろうかなー、 とかいわゆる安定を求めること多々あり。
でも不安定ながらも、こうして続けてきて最近色々繫がってきたな、と思います。
そりゃね、某カジュアル量販店のアルバイトやっているよりは
ボディワークの資格持っていて教えやっています!ていうほうが
ダンサーっぽいなぁ、と思うわけですが
作品に関わることになったときに代行やら何やら組まなきゃいけなかったり
日々の教えの準備をしなくてはいけなかったりで大変なんだろうなぁ、と。
結構柔軟に、かつある程度無責任に働きながら活動を続けていけるのは
今の生活、働き方だからなんだろうなぁ、とも。


…話は多少脱線しましたが。
今日こんな記事を読みました。
Perfumeに限界は訪れるのか〜年齢と「女性アイドル」の期限〜

をーう、響きまくるお言葉の数々。
アイドルグループに限らず、バレエ団やダンスカンパニーにも当てはまる内容。
15年後のNoismとかどうなっているんだろう、と思ったり。


選択しなかった道の存在。


思えば色々な選択をしてきたかと思います。
それでも続けてきた、だから今がある。
簡単に言ってしまえば、「継続は力なり」ということなのでしょう。

でもただ続けていればイイ、というわけではない。
選択が生まれるような、挫折が生まれるような挑戦をなくしては
見えてこない「高み」というものがある。

それはダンスや演劇といった芸事に限らず、
どんな仕事でも。

大学卒業するときに、ゼミの恩師にいわれた言葉
「3年続けるかどうかは1年で判断しないとね」
今はこの言葉の意味がよく理解できます。

だから若い人はもっと挑戦して、挫折が起きるようなことにも挑戦したらいい。
そのときにわかることも多々あります。



………と、偉そうにいっていますが…
まだまだ俺、若いッつーの!!

挑戦すら難しくなってくる年齢というのは確かにあります。
でも今日は単純に大学の同期がイキイキしている姿に感動したのでした。 

ことば言葉コトバ…in other words。

昨日(2016年7月11日)、永六輔さんの訃報が届きました。

享年83歳、死因は肺炎とのことですが
事務所関係者の方の話だと老衰と言っていいほどの穏やかな最後だったそうです。
7月7日、七夕の日にお亡くなりになりました。
ご冥福をお祈り致します。

小さい頃からラジオを聞いていた身としてはとても衝撃的。
近年パーキンソン病を患いながらも精力的にラジオに出演していらっしゃいましたが、
ついこないだ土曜のワイド番組が終わり、
その後の冠番組もここ2、3週間前くらいに終わったりと、
症状は思わしくなかったのでしょう。


永さんといえば、「言葉」の方、という印象が強いです。
作詞された名曲の数々
上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」「こんにちは赤ちゃん」etc..
秀逸ですよね。
「上を向いて歩こう」とか、「悲しい」「悔しい」といった感情を表す単語を使わず
身体的な言語で色々な感情を想起させる秀逸な詞だと思います。

そして永さんといえば、子供電話相談室。
秀逸です、回答の数々。 
なかでもこの回答、直接感情が伝わる言葉を使わずして
どうその感情を伝えるか、そこに言葉の美しさ、コミュニケーションの面白さが宿る。

最近作品をどれくらい説明するか、表現をどう説明するか、
ということに関心があります。
どうも身体表現というか、ダンス作品を作る人たちは
言葉での説明を濁すというか、正解を明示することを避けているような気がして…
もちろん正解は無い、感じるように見てくれたらいいのですよ、というのは
よくわかるし、それが抽象的な身体表現の面白さだとも思う。
しかし、やはり観る側は困る部分あるだろうし、
そういった部分を怠った結果、今のダンス界の現状があるような気もします。
わかりやすいダンスにする必要は無いと思うが、

作品に対して言葉である程度説明できる、というのは
それなりの責任を背負うことにもなると思うので、大事だな、と思っています。

1から10まで説明する必要は無い。
0から1を作るのは大変だし、0から1を見出すのも大変。
1を与えて、10、もしくは100くらいまで想起させる工夫が必要なのだろうな、と。
もちろんそこには観る個人個人のリテラシーや知識が関わってくるとは思うのですが。

そういったものを超えた、身体の強さっていうものが必要なんだろな、と思ったり。



永さんの話から始まって、言葉にいって、
やはり最終的には身体に戻ってくるのでした。

2016/07/11

イノナカノカワズ。

毎日毎日

僕らは電車の中で

脇目も振らずにスマホを見つめている

そこには広大な、世界のすべてが詰まっている様に思える

けれどもそこにあるのは

自分の居心地の良い世界だけ

世界は自分の居心地の良い世界のことではない

世界はもっと豊かで、残酷で、無関心で、とらえどころの無いもの
世界は皮膚の上から始まる



今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてがはじまるさ


「春夏秋冬」て、とても多面的な唄ですね。
さてさて、参議院選はご存知の通りの結果となりました。
SNSでの盛り上がり、世間とのギャップは今回も埋まらず。
やはり日本のネットは「東京」の代替でしかない。
それがSNSなどのフレームを通せば、単なる内輪でしかない。

やっぱり、居心地の良い内輪は、世界じゃない。

世界で傷ついて、戦って、また傷ついて。
そんな中で生まれるモノを希望として、生きていくのだと思います。


2016/07/09

選挙の日って、ウチじゃなぜか投票行って外食するんだ。

モー娘。って人数こんなに少ないんだね、ていうか今のアイドルが多すぎるのか。


さて、このblogを始めてから何度か選挙もあったし、SEALDsのデモや
反原発のデモの様子も見てきました。
ネットでの盛り上がりに反比例して現実の変化の無さにガッカリしながらも、
今日期日前投票に行きまして、いつもより人がきていたり、若い人の比率が多いことに
ちょっと希望を見出したりしながらも、あまり期待しすぎないようにしています。
思うに、日本のネット社会は「東京」なのだ、と。
「東京」向けの情報に溢れている。
だからこうゆうときに東京生まれ東京育ちっていうのは無力だな、と思います。

今回は参議院選挙で、政権交代が起きるような選挙ではありませんが
今後の日本を打ち出すような選挙なのだと思います。
個人的には改憲は必要だと思っています。
それをしない限り自衛隊の存在はあやふやなまま
いつまでも沖縄の米軍問題も伸展しないだろうし。
もちろんコスタリカのように軍隊を持たず、理想郷のような国はあります。
でも日本の現在の人口、国土を考えるにあたってそれは難しい気がしていて、
自国を守る力は持つべきだと思うし、それはしっかりと規定するべき。
災害支援、自国防衛を主とした軍隊として自衛隊を認め、
集団的自衛権による派兵ではなく人道支援として協力をしていけば良いと思う。
改憲が必要、と思う理由は下記のYouTube動画の考えに共感するからです。


でもまぁ自民党の改憲草案は「壊憲」草案だし、そこは絶対反対ですよね。
多くの時間をかけて議論して改憲してほしいものですが
残念ながら日本の政治家は議論できないし…

時節柄、政治的なことを綴りましたが。

正直な話、「力(≒暴力)」というものはわかりやすく効力のあるもので
「力」がなくては守りたいものも守れない。

日本人は竹槍やAK47、手榴弾というわかりやすい「暴力」の代わりに
選挙権という「力」を持っているのだと思います。

守りたいものがあるのであれば、「力」を行使する。

家族で選挙に行って、外食して帰る。
それが「平和」。
そうなのかもしれませんね。
自分たちの意志を示せる、選挙というカタチの「力」
それが「暴力」に変わること無く、いつまでも続いて欲しいと思いながら、
あとは10日の開票を待ちます。


2016/06/24

自主稽古メモ 2016.6.24

今日は短いフレーズを作る。

①自分で作った振付フレーズを踊るときと、
他人の作った振付フレーズを踊るときの感覚の相違
→他人の振付フレーズを踊るとき、頭の中でフレーズのポイント、ダメだし、
言葉が動きとともに想起されてくる
→一方、自分で作った振付フレーズを踊るときは即興的というか、
感覚的なものになってしまっている
→自分で作ったフレーズを踊るときも他人に振りつけられているときと同じ意識を

自分を客観的に、第三者的にフィードバックする、というのは
当たり前といえば当たり前なのだが、改めてそれが発見できたのは収穫。

②言語と動きに関係性
言葉に落とし込み、そこから身体へ反映する、という自分の癖、性質
→感覚的な振付(ex)糸に引っ張られて動く、質感で動く の試行を今度試す

③フレーズの既視感について
→いわゆる動きを作る、ということと行為の連なり、拡大解釈した行為の連なりを作る、
という振付けの差があるような気がしていて。
前者はテクニックベースのモノ、後者はサブテキスト重視のモノ、みたいな感じに
ざっくり考えられるのかも。それにとくに意味はないかもだけど笑
で、個人的には前者が不得意で、後者が得意、みたい。
コンタクトのペアワークとかも後者に含まれるのかな?イメージとしては


と、いきなり自主稽古のメモを貼ってみました。
最近SNSを今まで以上に使い分けてみようと思っていまして、
Twitterは情報、近況垂れ流しSNS
FacebookはいわゆるSNS的な
Instagramはハッシュタグを利用して未知との遭遇もしてみる、みたいな感じで。

このメモはInstagramからのリンクを兼ねて。 その日の稽古日誌ですね。

色々インターネット、SNSが発達している現在ですから
せっかくなので色々試してみようかな、という感じです。

2016/06/21

政治的っていう話から、プロ論。ぷろろんて平仮名で書くとかわ...(ry

蒸し暑く、嗚呼梅雨っぽいなぁ、と思いながらも
今年はずいぶんと雨が少なく、水不足が心配されます。まだ今年は蛙を見かけていない。

今日は井の頭公演まで知り合いのの方がゲスト出演されていた
野外劇団楽市楽座の「ヨイショ、コラショ」を観に行ってきました。
ここ2〜3年くらい劇団どくんごを観るようになって旅する野外テント劇を見るように
なったのですが、毎回出演者の方の出演、音楽演奏のみならず裏方表方も
こなすオールマイティさに感心させられます。
翻って、色々なスタッフの方々に支えられて、
専門で役者やダンサーに没頭できるのであればもっと真摯に深く、
それぞれのことに 取り組まないといけないよなぁ、と自戒を込めて思います。

自分たちの手で、自分たちのやりたいことをゼロからやる。
そこには表現としての縛りや規制もなく、
真の表現、エネルギーの濃さなのだろうなぁ、と思ったり。

そんなことを思ったのは、今日(自分の)TwitterのTLで騒がれていた
「音楽に政治を持ち込むな」問題。
概略→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160620-00010004-trendnewsn-ent

難しい話だ、と思いつつ...
メジャーなアーティストや公的なお金で運営される作品であればあるほど、
公平で偏りのない、多くの人が楽しめる作品であるべきだ、ということなのか。
でもそもそも表現である以上、ある個人による偏りのあるものだとも思う。

表現の価値とはなにか...

なにか醒せてくれたり、新しい価値を見出させてくれたり、
明日からの元気をもらえたり...
色々だと思います。
色々なフィルタや規制、自粛を通して成り立っているのでしょう。

劇場という空間の規制、助成金という圧、受け手の意見、クライアントの狙い。
人に観せる、観てもらうという関係が成り立っている以上、
そういった諸々とどう折り合いを付けて自分のやりたいことをやるか。
バランス、ということなんでしょうか。

今日楽市楽座の野外劇を観ていて、そういったしがらみとは無縁な
自分のやりたい表現、エネルギーを感じ、
何の為に作品を発表するのか、劇場という制度、芸で食べていくということ、
表現で食べていくということ...色々なことを考えさせられました。


クライアントがいる案件などを別として、
自分が活動する舞台芸術の世界において、出演料が発生する作品というのは
基本的に助成金、公的なお金が動いている作品です。
つまり、自分がダンサーとして得ているお金は基本的に公的なものです。
そう考えだすと、自分のダンスというモノは誰のものなのか。
振付をする振付家のモノか、それとも振付家に助成している公的な機関のモノか。
はたまたその公的な機関にお金を納めている人々の一部である観客のモノか。
そこには色々な考えがあるだろうし、明確な答えはないでしょう。
でもそういったことを考えていくと、自分のやりたいことってなんだっけかな、
というのが見えてくるような気もします。

そんなこんなに思いめぐらせているうちに思ったのは
プロというのはその道でお金を稼いでいる人のことというよりも、
お金が発生するしないを別として、そのことに全力で取り組む人のことだ、ということ。
そうゆう人たちと仕事がしたいし、自分もそうありたい。

野外劇の話から政治的な云々から始まってプロ云々みたいな話にトンで、
相変わらず良くわからないと思いながら、
よくわからない繫がり方するから面白いよね、とも思う。

2016/06/13

ダンスのチカラ

しばらくブログ放ったらかしていました。
その間に桜も咲いて散り、梅雨入りして2016年も半分終わってしまいそうです。

4月には松本武士さんの作品「密」を。
去年の12月からコツコツと色々なものを試しながら積み上げた、濃密な作品でした。
真摯に行為を行うことの強さ、
それはいわゆるダンスとしての運動エネルギーの強さを超えて
「ダンス」になっていくんだなぁ、と「ダンス」の強さ、考え方を再認識、発見できました。
コチラの作品、7月にサラヴァ東京で再演させていただきます。
作品自体は若干のショートバージョンになりますが、お時間ありましたら是非。
渋谷でお酒を片手にお楽しみ頂けます。
詳細はコチラ


で、5月からリハーサルしていました、ここ3年ほど参加させていただいている
GRINDER-MANの二子玉川riseでのパフォーマンス、
今年はダンスと音楽をテーマにした「フォーエバーダンシング」。
昨日無事に終了しました。

普段は劇場のなかでダンスを作品化する、ということをしているわけですが
ダンスをそのままのカタチでお届けする、そのままのエネルギーをお届けすることが
できたのではないかな、と思っています。

それと同時に、劇場やとある空間に持ち込まれた瞬間に作品性や価値、
そういったものを問われるようになるのは不思議なものだし、面白いものだな、と。
それが劇場のもつチカラというか、役割というか…


価値のあるものを額縁に納めて眺める。
逆から言えば、額縁に収まっているものは価値のあるものだ。

劇場という空間で上演されるものは価値のある、
作品性のあるものではないといけない。
そのような考え方があるのかもしれないなー、と思ったり。
自分もそういった視点で劇場で作品を見ているような気もする。
そのような自尊心みたいなものが芸術を支えているというか、
さまざまな表現を芸術たらしめているような気さえしてきます。

不安定な自尊心の上に成り立つ芸術。
それがゆえに敬遠されているような気もするし、
敷居高く感じさせている部分もあるように思う。
かといって観客に迎合する、というのも違うような気もする。

なんとも難しいバランスの話なのかもしれない。
自分のやりたいことと、人に観せるために求められるモノ。
その微妙なバランスをとりながら、やっていくものですよね、やはり。


そういった小難しいことは結局考えるだけ無駄な部分もあって、
純粋に踊り続ける身体のエネルギーは美しいし、それはまた観る側にも伝播する。
今回「フォーエバーダンシング」に参加させていただいて改めて思います。

どこかで戦争をしている時に、どこかで誰かが踊っていることは「救い」であり
たとえ雨乞いの効果がなくても、そう信じさせるエネルギーがダンスにはある。

ダンスはそれでいい、ということなのだと思います。

それを作品とすることもできるし、日々の生活の潤いとすることもできる。
正解はひとつではなくて、無数。
好き嫌いはあったとしても、否定すること無くやっていけたら良いのではないかな、と。


もっとダンスと気軽に付き合いながら、深めていきたい。
表現としても生活としても。

2016/03/22

言葉にできない、という甘え。

悼めども悼めども、キリが無いものだなぁ…
と今日のニュースを見ながら思ったりもするわけですが。
なんだか暗澹たる感じで始めましたが、そんなに暗い内容でもないよ。

一昨日富山県立近代美術館でのGRINDER-MANの新作パフォーマンス小作品
「トントン・ツー・タンタン」を終え、昨日帰京しました。
今回の作品には「言葉」による説明がふんだんに散りばめられていたのですが、
ダンスに足りないことってシンプルにそうゆうことなのかもな、と思いました。

ダンスはわからない、という意見はよく聞きます。

でもそれは作り手側が身体表現ということに甘えて、
言葉にすることを放棄している、ということなのかもしれません。
音楽に意味を託したり、物語的なものを強く打ち出してわかりやすくしたり…
それもひとつの方法かと思いますが、作品に対してアツく語れるかどうか、
それって結構大事なことなのではないかと思いました。
もちろん身体表現である以上、言葉以上のものが必要だとは思いますが。

作品の出発点とかテーマとか、そういったものを聞いて作品を見るということで
「ほー、なるほどねー」と思ったり面白がれる部分は多々ある。
というか、自分がダンスに興味持った原点って作品の創作過程のそういった部分を
見てきていたからなのだよね、実は。

ネタバレ、と嫌う人もいるかもしれませんが「わからない」と切り捨てられるよりは
いいのかもしれません。
ていうか本当に面白い作品ならネタバレしてても面白いハズなんですよね。

ダンスの観客育成、ということはここ最近興味のある部分でもあり
そのヒントが発見できたような気がしてとてもいい経験になりました。

2016/03/11

もういいかい?まだだよ

久々のブログ更新になっちゃいました。
今年も花粉の季節がやってくるとともに、3月11日を迎えました。

今年は例年より今日という日を意識しなかったなぁ、と思いながらも
この一年を思ってみるとなんだか日本はずいぶん窮屈な方向に向かっているなぁ
と思ったりも。

それは風化だとかなんだ、ということではなくて。

変な自意識や周りの目や同調圧力に屈せずに
みんながありのままの自分で生きられたらいいな、というのを言うのは易く
そのためにはありのままの「他人」を受け入れられるか、ということ。

その人にとってのその人の「ありのまま」はその人にとっての「ありのままの自分」
なかなかそれを認めることが出来るか、難しいような気もします。

Imagine all the people Living for today...

ああ、そうだよな、て改めて。
とくに書くことないのだけど、やはり今年もなんだかんだブログを更新しました。

東日本大震災発生から60ヶ月

死者数           15,894名
行方不明者数   2,561名
(2016年3月10日付 警視庁発表 )
http://www.npa.go.jp/archive/keibi/biki/higaijokyo.pdf

毎年毎年この日にブログを更新していての発見ですが、
減り続ける行方不明者の数がそのまま死者数の増加数ではない、ということ。
それってなんだか希望ですよね。
ドラマチックだな。


2016/01/03

非ダンス。

あけまして、おめでとうございます。
新年の挨拶をブログでする、て言うほどマジメなわけではないのですけども。

先日参加させていただいた即興イベント「TAIMAN vol.2」の映像が
YouTubeにアップされまして
https://www.youtube.com/watch?v=BifBf9Jbf4k
それを見ていて、当時(と言ってもつい先月のことですが…)を思いだし、
あ、備忘録的に書いておこーっと思ったのでブログに書いています。

このセッションの時にご一緒させていただいた、ShinyaBさんと
アフタートークや終了後にお話しさせていただいている中で
「オチ」のつけ方、みたいなことに話が及びました。
で、考えてみて…
ダンスにおいて「オチ」をつける、展開を構成をする、というのは
演劇的だったり、音楽的なことなのかもな、と思いました。


 音もなにも付随しない「ダンス」単体というものは終わることの無い、
表現というよりは行為なのかもしれないな、
と最近ソロを作りながらも思ったりします。
それが作品として、表現としてカタチになる時にコンセプトやテーマ、
演劇的要素だったり音楽的要素がくっついてくるのではないかな、と。
ダンス作品にドラマトゥルグという役割がついたりするのは

やはりそうゆうことだったりするんじゃないかと思う。
だから「ダンス」だとか「演劇」だとかで分けて考えることっていうのは、
やはりナンセンスなのかもしれない、と思ったりもします。
「ダンス」に緩急や展開、終わりを与えることで純粋な「ダンス」からは
離れていくような感覚。「ダンス」をそのまま生なもので提供することの難しさ。
そもそも生で提供するものじゃないのかもしれないけど、加熱調理用、的な。

そもそもそもそも、「ダンス」て
なにか良くわからない(明確な定義が出来ない)ですから
不毛な、空回る考えなのだし、
そもそもそもそもそもそも言語化できないっていうものが「ダンス」なんじゃないかな、と思ったりもするわけでした。


と、そもそもそもそもうるせーよ、と思いながらも…


個人的には「ダンス」ていうのは自分で即興的に踊っているとき、
ていうのが一番「ダンス」な気がしています。
それはCDショップの試聴機でノリノリになりながらだったり、
鍋で料理を煮込んでいるときだったり、
ほろ酔いで駅のホームで電車を待っているときだったり、
そんな瞬間に、誰にも観られていない時に
「ダンス」が一番立ち上がってきている感覚があります。
これは、個人的な感覚の話。

じゃあ即興が一番「ダンス作品」か、といわれるとそうではない気がする。
奇しくも昨年末即興のパフォーマンスに参加させていただいたり、
観に行く機会があったのですが、完全なる即興というのは観る側もやる側も
慣れが必要というか。
「ダンス」と「ダンス作品」の差というものがあるんだろうな、
というのはここ最近思っていることで
「ダンス」に展開や構成が付加されたものが「ダンス作品」
で、一般的に劇場というか公演という形態をとる、
いわゆる発表(=表現)として表出するものが「ダンス作品」なのだと
個人的には思っています。
そんな腑分けすらナンセンスなのかもしれませんが…笑


ここまで書いてきて…まとめがよくわからなくなってしまった笑
箇条書き的に思ったことをメモった、と思えばいいのかな。
なんにせよ、なぜ「ダンス」というものが定義しにくいのかというと

定義する必要があるのかは置いておくとして…「ダンス」を考えるうえでの考え方のひとつとして

「非ダンス」というものが定義できないから、という話があります。
言ってしまえば日常のちょっとした動作も「ダンス」と言えるし、
「ダンス」の主語が必ずしも人間じゃなかったり、非生物だったりする
こともよくあります。
それが「ダンス」である、というかそこに「ダンス」を見出してしまいます。
こうゆうのも、ダンス見えますもんね↓
https://www.facebook.com/WattanNews/videos/909438845754453/

ふーむ、考えれば考えるほどと言うか、
考えても考えても「ダンス」ていうのはわからないもです。
それでいい、とも思いますが。