2017/08/22

HP大改修中。

PCの買い替えに伴い、HP制作環境が一新され
大幅なHP改修が行われています。
過去作などのアーカイブの立ち上げがまだできていませんが、
今後の活動予定などのご報告のため、更新させていただきます。
逐一以前の状態に追いつけるよう更新していきますのでよろしくお願いいたします。

…といってもデザインも大して変わってないからなんとも、ですよね笑
HTMLの勉強もちょっとずつ始めたのでそのうちいい感じになっていくかと思います。
生暖かく見守っていただければ、と。

今後ともよろしくお願い致します。

2017/06/30

ダンスの視点。

梅雨入りしたのになかなかまとまった雨も降らず、ただジメジメ。
なんとも水不足が心配です。

昨日今日と炎上しております、バニラ・エアの件
論点が色々なところに飛んでいったりしてそもそも何が問題なんだっけ?
みたいな部分も多々あるのですが、クレーマーだとか法整備だとかということよりも
「歩く」ということをどう捉えるか、で意外とあっさり解決するんじゃないの?と
個人的には思ったりしました。

歩くとは…

ある・く【歩く】
[動カ五(四)]
  足を動かして前に進む。歩行する。あゆむ。「―・いて帰る」「野山を―・く」
  あちこち動き回る。移動する。必ずしも徒歩と限らず、乗り物などで外出する場合にもいう。「得意先を―・く」「世界を股(また)にかけて―・く」
  野球で、打者が四死球で塁に出る。「怖いバッターを―・かせる」
  月日を経る。過ごす。あゆむ。「―・いてきた半生を振り返る」
  (他の動詞の連用形に付いて)あちこちで…してまわる。「尋ね―・く」「酒場を飲み―・く」
[可能]あるける
出典はこちら

一般的に(≒健常者的に)考えれば(1)なのですが、(2)の意味ももちろんある。
それに「腕で歩く」ということは障害者と関わる中で実感できるし、
4つんばいの動きなんてしょっちゅうやります、ダンスの中では
ひとつ留意して欲しいのは俺はいわゆるコンテンポラリーダンスのダンサーで、床使いが好きな、ということではあるのですが…
現に今活動してるIntegratedDanceCompany響-kyoにも「腕で歩く」ダンサーがいます。

歩くという機能は脚にのみ備わっていることではない。


この考え方があれば、「自力で歩く」ことの解釈も広がり
「あー、そうゆうこともあるよね」とすんなりといくような気がします。
同様に「背中で語る」こともあるし「膝が笑う」こともあるし、
「耳で見る」や「肌で聞く」こともあります。
それは身体感覚、内側で起こっていることでしかありませんが、
「腑に落ちる」ことなのです。

床に寝そべる、ということが誰にでも心地いいこととは限らないし、

座るということが楽だとは限らない。
逆に、はたから見たら「えぇ!?」ということでも本人にとっては安全なことだったりします。
それは関節が過伸展することだったり、階段を腕で這い上がることだったり。
障害の有無、ということに限らず身体が違えばそれぞれ違った身体のものさしがある。




これジャンパーだったのか。

はい、多少脱線しましたが…
法整備のこととかバリアフリーのこととかはよくわかりませんが、
ダンスをやっていることによる身体感覚でわかること、というのがあるわけで。

そうゆう視点で社会を見つめる、ということ。
これもある種の社会とダンスをつなげることなのではないかと思うのです。

ダンス(特に舞台芸術的な方面)をやっていると、
ダンスの無意味さとか社会性の無さのようなものにキューキューさせられ、
ついアール・ブリュットとか教育方面のこととつなげて
社会的な意義があるんですよ!みたいなことにいきたくなりますが
そういった方向性だけではなく、ダンスによって得られる身体の知識、
それを社会に還元していく、発信していくこともできる気がする。
もちろん結果的に教育的なことなのかもしれません。

そんな考え方ですらダンスと社会を無理くり繋げて
ダンスには社会的な意義があるんですよ!
と言おうとしているのかもなー、と思ったりもしますが笑
とにもかくにも、ダンスをしていることで得られる視点というものがあり
せっかくダンスやっているのならその視点を活かしてみたらいいんだろうな、と思いました。
そんでそれを言語化する、ということも社会と繋げているってことなんだぜー
Yes!自己肯定!

はい、深夜のテンションでお送りしました。




2017/06/24

ミエナイチカラ。

今年の8月いっぱいで終了、ということで行きたいねー、と稽古場で話に挙がった
DIALOG IN THE DARK

ですが既に残りの前売り分は完売。だったら団体予約でいけばいいんじゃない?ということで
4月からリハーサルをしている作品のメンバー+αでリハーサルの一環と託けて
今日体験しに行ってまいりました。

体験した感想としては、
先日参加している研究グループ「BodySynergy」でファシリテーションさせていただく機会があり、
伊藤亜紗さんの著書「目の見えない人は世界をどう見ているか」(光文社)をベースに
「ブラインドウォーク」「ソーシャルビュー」を取り上げた時に
本を読み直していて印象に残った一節を思い出しました。

「目の力によって対象と自分を分断し、境界線をはっきりとさせること、それが近代における「大人になる」ということです。低次の感覚から高次の感覚へ−教育とは、まさに子どもを触る世界から見る世界へ移行させることなのです。」

視界が塞がれることによって生まれる外界への興味や好奇心、
触覚を頼りに世界を認識しようとする身体やその時の怒られた記憶などを思い出し、
子どもが世界を認識しようと色々ベタベタ触っちゃうのがよく理解できました。

目で見えてしまうから境界線が生まれる。
見ているのは輪郭(=境界線)だということ。
境界線があるから分かる、識別する、分ける。

境界線は「差」を生む。だから分かる、しかし分けてしまう、比べてしまう。

現在再演に向けてリハーサル中の「Boder」の初演クリエイションの時に挙がった話なども合わさって、
そうゆうことなんだよなー、て思いました。
「境界線」ていうのは自分の中でやはり大きなトピックなのだ。

今回は知り合いばかりのグループで体験したので全然知らない人たちと体験してみたいなー、
思って早速ファイナルVer.の追加開催に申し込んでしまいました笑

行ったメンバーとリハしている作品や再演の話はまた詳細出たらお知らせします。

2017/05/27

ラウド・マイノリティー。

気がついたら久々のブログ更新。もうね、書き始めの定型文が大抵「気がついたら」とか「久々に」なのです。
さらに言うと、大学卒業したくらいから使っていたデスクトップ(iMac)がグラフィックボードからオジャンになったので
先月末くらいにMacbookProに買い換えたのですが、買い換えて以来のブログ更新なので
編集画面のフォントなどが違ったりして若干戸惑っています。
そのくらいに久々です。

最近は4月から新生活な感じが始まりまして、色々あーせねばこーせねばなど思ったり実践しているところです。
一週間における早起き回数が減りまして眠気で気を失うというのが無くなったというのはいいことかも。
リハとかの兼ね合いで夜寝る時間はどうしても遅くなるから遅寝早起きだと身体が追いついてなかったんですね、きっと。


今日は国会議事堂前までデモに参加しに、と言いますかデモを眺めに行ってきました。
「デモなんて意味ねえよ!」みたいな意見はSNSでも散見しますし、
個人的にも過去の経験からそのような感覚はあるのですが、かと言って諦念に浸ってしまうのもなんかムズムズするので
とりあえず物見遊山的な気分でまぁいっちょ見に行ってみるベー、と軽い感じで行ってまいりました。
行ってもコールとかはやらないですし。
そのぐらいの軽い感じが必要な気もしますしね。


それで30分弱ほど道路の対岸でシュプレッヒコールの様子を眺めたりしながら思ったのは
結局これって「永田町」の中の話でしかないんだろうなー、ということ。
国民が直接的に意見を表明する(≒デモ)ということが行われているのは国会議事堂の前であって
実生活の場にまでは波及していない、ということを感じたのです。
他の場所でもやっているのかもしれませんが、比較的SNSなどでそのテの情報に触れる方だとは思う自分でも知らない。
ので一般的にはさらに知られていないのでしょう。
結局「国会」の中でしか政治の話がされていない。
もちろん議員は選挙によって国民に選ばれた代表で、その人たちが議論(実際しているかどうかは今は置いておいて…)しているのだから
それでいいのかもしれませんが、だからと言って選挙が全てじゃないし、選挙の時だけ盛り上がればいいわけではなし。
政治なんて実生活に直接関わってくることなのに生活レベルで話されることはほぼない。
むしろ忌避される話題ですもんね。そもそも話し合うとか議論に慣れてないということもありますでしょうが…
そりゃやっても意味ねーわ、てなるのも頷ける気がします。
国会議事堂前でデモが繰り広げられていても偶発的にそれに出会う人もいないし、知っている人しか出会えないわけで。
そう考えると外山恒一さんとかはまぁやり方としては上手いのだろうな、と思います。
結局政治が興味ある人だけのものなんです、実生活に関わりながらも。
だからもっと根本的に考えなきゃいけないこともあるんだろうな、と思います。


さてさて、政治的な話は重くなりますね〜
本題はここからで、こうゆう事って別に政治に限った話じゃないよなー、と感じたわけです。
要するに内輪、ということ。
偶発的に全く知らない人が出会う機会が用意されているか、ということ。
もちろん情報をキャッチする側の積極さも関係するかとは思いますが、担い手がどれほどそのことを意識しているか、
というのも多分にあると思います。
内輪の中に入って見ないとわからないことも多々あるし、内輪に入ってみて「ダメだ〜ッ」となれば出ればいいし。
でも入り口がちゃんと開かれているか、というのは大事ですよね。
いきなり内輪に入っていくのはやはりハードルが高い。

自分も車椅子のダンサーを含むダンスカンパニーに関わっていなければ、
今ほど知的身体問わず障害全般にセンサーが働くこともなかったかもしれないし、興味を持つこともなかったかもしれない。
色々な世界に違う角度から切り込めるか、切り込む入り口があるか。
自分の知っている世界と全く関係ない世界を結ぶ回路が開かれているか。

最近はダンスとか、芸術におけるそうゆうことに興味があったりします。




2017/03/29

終わりをみつける。

もう気がついたら3月も終わろうとしてますね。
2016年度もお終い、です。

ご存知の方はご存知かと思いますが、実は某カジュアル量販店でバイトしていまして、
本日その最終出勤日でありました。
気がついてみたら勤続4年半、自分でも接客業に向いていないと思っていたのに
ずいぶんと長いこと続けてこれたものだな、と思います。
それもこれも案外にシフトの融通を利かせていただいたり、
マイペースで働かせていただけたり、
色々とよくしていただいた職場の皆様のお陰かと思います。

ありがとうございました。

職場での経験は色々と得るものも多く、いかに自分が狭く小さくマイノリティな世界にいるのか、
ということをとても思い知らされました。
みんな日々の生活を成り立たせるだけでも忙しく、
自分のやっていることなんて意味あるのかなー、と思ったりもしましたが
全く別の内容で職場の女の子と話していたときにふと自分で言った
「価値観の違いがあるから色々な仕事が成り立つ」という言葉で色々と腑に落ちました。
我ながら良いこと言ったな、て思いました笑
 
さてちょっと脱線しましたが…
辞める理由、というのはこれといったものはないのですが
例えるのならサーファーが今日はいい波がきそうだな、と思って海に行って、
いい波に乗る、みたいなことなのかな、と思っています。
今日はいい波がくる、という経験と感覚によるもの
いい波に乗るためには海に行って波を眺めているだけでは無理で、
実際に海に入っていい波を待ち続け、タイミングを合わせて乗らなければいけない。
色々考えてみて、そんなたとえが浮かびました。
……うん、なんとも伝わりずらい例えだ笑

あとは他にも春だから、とか大学生活よりも長く勤めた(4年半)から、とか
色々理由を考えてみたのですが、もっと自分のやりたいことのギアを上げたい、と
シンプルに思ったからなのです。
言うたらいい年齢になってきましたし、それなりのキャリアも積んできたわけで
4年半前とはまた色々と変わってきている。
そういった諸々の変化の中で今一度決意を新たに、ギアをひとつ入れる感じを持ってみたいな、と。
決意を新たにするだけでは人間は変わらず、環境や行動を変えないと変わらないらしいですし。
正直ダンスだけで食べていける算段なんて皆目ついていませんし、
安定的な収入源なくなるぜーッ、みたいな不安もあるのですが
まぁ思い切ってやってみちゃえ、という部分が強かったので。

春ですしね。

ということで時間の融通が随分と利く生活になりましたので、
お仕事とかお仕事とかお仕事とか楽しいお誘いとか、ぜひぜひお誘いくださいませ。
でも4年前とかはそんな感じだったんだよなー、と思うけどもっとダラダラしてた気がする。
こりゃ気をつけないとダラダラしちゃうんだろうな。
ダラダラしない様に皆様ご協力くださいませ笑

あ、ひとつだけ。

仕事辞めたといっても仕事のひとつを辞めただけで10年以上続けているイベント設営撤去の
バイトとかもやっているのでご心配なく。


あと今回辞めるにあたって「終わりをみつける」ということなのかもな、とも。
「終わりをみつける」というのはよく稽古で即興などをやっていると言われることなのですが、
始めてしまうことは意外と簡単でどのように収束させるかの方がよっぽど難しいということ。
ダラダラと続けられてしまうものです、案外と。

思えば今までの人生で自分ではっきりと終わりを決める、ということは
あまり無かった様に思います。
いつの間にかフェードアウトしていたり、学生生活の様にある期間が終わったから終わったり、
そうゆうことは振り返ると多くあるのですが、自分で決めた終わりはあまり無かったかも。
そういった意味でもよかったのかもな、と思ったりします。

放っておいても終わりはくるし、放っておいたら終わってしまう。
それは人生もそうだろうし、人間関係もそうなのだろうと思います。
終わりをみつけることで始められることもあるし、始めるために終わらせる必要もあったりする。
別にセレモニー的なものも無いし、日々の生活の中の1ページなのだろうけど
ひとつ終えて、またひとつ始めたいと思います。

重ねてになりますが、4年半お世話になりました。



2017/03/11

6/4,600,000,000。

なんだかんだで久々のブログ更新になりました。
2月の公演も無事に終わり、確定申告が間に合うのかどうかハラハラしながら
例年よりマスクをちゃんとつけるという、いわゆる普通の予防法により
軽く感じる花粉症に苦しめられつつも、今年も3月11日です。

最近思うのは、地球の歴史から見たら6年という歳月も一瞬で
きっとまた起こることなんだろうな、ということ。
別にそれは悲観しているとか諦めがあるということではなく、
多分起こりうる事実、ということなのだと思います。

そんな風に考えると、人間の一生なんて地球レベルで見たら一瞬で
儚く、とるにたらないことなのかもしれないけど。
でも顕微鏡的に深く深く潜っていったら、とても濃密な時間、みたいな。
相対性理論てこうゆうことなんでしょうか?

一瞬の、光の様に過ぎ去るものだったとしても、強い光であれば
影すらも焼き付ける様に。
その焼き付けられるものが人生なのかもしれませんね。
 

正直震災のことと国のこととか合わせ考えると暗澹たる気持ちにはなりますが…
それも大事だけど、やはり日々生きていくことを丁寧に、
一度きりの、光の様に過ぎ去ってしまうのかもしれない人生を
しっかり謳歌することが大事なんじゃなかろうかな、て思ったりします。

3.11を忘れるとか忘れないとか、そこにこだわり続けるのではなくて
人生のなにか考えを新たにする契機としていけたらいいな、と。
毎年ブログ更新する必要もないのだけどね、
やはりいいきっかけなんだな、て思います。
毎年更新してると過去分見てみるのも面白いしね。



今年は、そんな感じです。



東日本大震災発生から189,302,400秒

死者数           15,893名
行方不明者数   2,553名
(2017年3月10日付 警視庁発表 )


2017/01/31

現実は劇場より奇なり。

日々2月の本番に向けてリハーサルに励んでおります。
2月の中旬に舞台に出ます、2014年の立ち上げ当初から関わらせていただいているIntegratedDanceCompany響-kyoの公演です。
お時間ありましたら是非ご来場ください。今回はダブルビル公演で、全く違う毛色の2作品でお楽しみ頂けるかと思います。
コチラでご予約承ります。

IntegratedDanceCompany響-kyo 第4回公演

【日程】
2017年2月18日(土) 18:00開演/19日(日) 15:00開演

【会場】
東京芸術センター ホワイトスタジオ http://www.art-center.jp/tokyo/



【料金】
[一般]
前売3,000円(当日3,500円)
[学生・障害者割引]
前売2,500円(当日3,000円)
*当日学生証、障害者手帳をお持ちください。

*日時指定・全席自由 
*障害者介助の方1名のみ無料
*学生・障害者割引はクリエイティブ・アート実行委員会でのみ扱います。

詳細はコチラをごらんください。 


さてさて前置きが長くなりましたが…


先日NPO法人芸術公社の主催するシアターコモンズのパスカル・ランベールWSに3日間参加してきました。
都市をみる/リアルを記述する」 というWSタイトルのもと、現実や日常生活のリアルをいかに作品として再構築するか、を実践しました。
初日の自己紹介、2日目の街を歩き、採取するフィールドワークを通して、現実世界のなんと豊かなことか、面白いことかを再実感。
もうね、センサーを張り巡らせて街を視て、聴くと、作品作るのが虚しくなるくらいに現実というのは面白すぎるのです笑
そういった面白い現実をどう「リアル」として再構築するか、それをWSを通して実践していったわけですが…

話はちょっとズレますが、個人的には「現実」と「リアル」という2つの言葉は分けて考えています。
普段の会話でも「リアルだね」という言葉の使い方は、既に虚構を前提としていると思っています。
(完全なる現実ではない、現実の再現=リアル)
なんかそのへんのことは昔F/Tの劇評コンペで書いたなー、て思いながらDIGってみたら出てきました、自分の
興味ありましたら読んでみてください、と。

戻りまして、そんなWSを通して思ったことは、「ダンス」を「リアル」として再構築するということは日常生活の異化なのだろうということ。
チェルフィッチュの身体性とか、そうゆうことなんだろうな、て思います。
日常的な身体を日常空間から切り離して舞台で異化する。
でもそうなってくると「ダンス」にとって劇場も、舞台も必要ないのかもしれないなー、と思ったりもするわけです。
つまり、よく身体ひとつあればそこは劇場だ、みたいな言葉はありますが
それは実演者にとってだけではなくて、観る側にもいえることなのだと思うのです。
現実の中に、日常生活の中に物語を、「ダンス」を見出す態度。
それはある種の劇場的な身体と言えるんではなかろうかと。
その「ダンス」を見出す生活態度があれば日常の中に「ダンス」はいくらでもある。
そんな視点を持っていれば…



これも「ダンス」やし



これも「ダンス」なんですわな。

そう考えちゃうとねー、「作品」作るのってなんか虚しくなってきちゃうなー、と。
だって現実に起きていることの方が豊かで、面白いんですもの。
だから「作品」を作るのなら、徹底的に虚構でもいいのかもな、て思ったりします。
これ以上誤摩化しの利きようの無い、身体というものすごい「現実」を使っているのだから、それで十分なのかもしれないですよね。
今まで過ごしてきた逃れられない時間の、食べたもの、経験したもの、その全ての積み重ねであり、装えば見抜かれる、噓の無い身体。
だから身体は偉大なのです。

色々と考えさせられた、いい3日間のWSでした。
不貞腐れずに「作品」を作ることを頑張りたいです。

あ、追記になりますがドネーション制のWSというのが画期的というか新鮮でした、自分の価値観を問われているような感じもして。
そして財布事情も問われているような感じ笑
公演や企画を打つのにクラウドファウンディングをする、と言うのが最近チラホラ出てきていますが、
ドネーション制っていうのもアリなんじゃないかな?て最近思っていたのでそのへんも興味深く。

色々と激動の時代になってきましたから自分の「価値観」というものを問いただしてみるのはいいのかもしれないな、と。

2017/01/24

3割打者がスゴい。

気がついたら1月も終盤。
はー、こんな感じで2017年もどんどん過ぎていくのでしょうね。
でも逆に最近過ぎ去ったことも振り返ってみるとずいぶん前のことの様に思たりして。
時というのはF1のレーシングカーみたいなイメージなのかもな、て最近思います。過ぎ去る目の前の瞬間は最高速度で、
過ぎてしまえばアッと言う間に遠くに行ってしまう。
物理的な感覚と似ていて、遠くだとそんなに速く見えないけど近くだと速い、みたいな。

前置きとはとくに関係なく。

ことあるごとに炎上するキングコングの西野さんの、最近話題になりました「お金の奴隷解放宣言」。
モノづくりに関わる人たちが色々なリアクションをするの、よくわかります。
西野さんの言うことはよくわかるし、現に本の売り上げも伸びているわけだからプロモーションの一環として
考えればいいんじゃない?と思いました、個人的には。
やり方として上手い、というか現代だから出来るやり方だろうし、今後似たようなケースは増えてくるだろうと思う。
フリーミアムっていうんだってね、ブログに書いてあったけども。
ただこうゆう捉え方はもちろんあるし、 中村祐輔さんが言う様に お金と職業としてのクリエーターの距離感を考える必要は
あるんだろうな、て。
距離感の取り方に失敗したり、あまりにそれに慣らされてしまうとこうなったりするし。
アーティストやクリエーターは慈善事業でやっているわけではないので。趣味でやっているのなら別ですが。
結局ね、お金をもらえないとそのことに一番時間を注ぐことが出来ないのですよ、生活があるから。
逆に言えば時間を捧げていることをマネタイズする必要があるのかもしれないけど。
ライフワークとライスワークで分ける、という考え方もありますが、それは個々人の考え方だし。

とまぁこのゴタゴタを見ていて思ったのは、モノ(実物)ではない表現では何が可能か?ということ。
そんなことを思っていたらちょうどこんなTweetがTLに。





なるほどなー、確かにその通りだわ。
打率3割がスゴい、みたいなことですね。わかる人=安打数だとして、分母を増やせばいい。

ではどうしたらいい?

思うに「ダンス作品」と「ダンス」を分けて考えることと、「劇場」と「ダンス作品」を分けて考えるべきなのかと。
「ダンス」はもっと気軽に見れたらいいし、もっと気軽に踊れたらいい。
恋ダンスがものすごく広まったのは気軽に見れたし踊れそうだったし、てことだと思う。
で「ダンス」に興味を持ったら、お金を払って「劇場」で「ダンス作品」を観るのだと思う。
だったらまず「ダンス」に興味を持ってもらえる様に、「ダンス」という球を沢山投げ続けないといけないのだ。
前のブログでも書いた様に発表の場はなにも「劇場」だけではない。
「ダンス」を知ってもらう、興味を示してもらう必要がある。
だっていきなりチケットのお金払って劇場に行って作品観るのって、ものすごいリスキーだしハードル高いもん、普通に考えて。
ミュージシャンでいえばライブに来てもらうことな訳だから、そのきっかけであるCD的なポジションを「ダンス」でどう設定できるか。
最近興味あることはそうゆうことなのかもしれない。
作品を説明することとか、ネタバレについて考えることとか、そこに繫がっているような気がする。
Instagramに自主練の様子を載せるのもそれの延長だと思うし。

今年はそのへんをより意識的に活動してみようかな、と備忘録的に。
とりあえず炎上させたりなんだりしているヒマあったら球投げたり技術磨いたりしたりしたほうがいいと思うので、
地道にコツコツやります、自分は。

2017/01/07

踊りたいの?踊らせたいの?創りたいの?晒したいの?表現したいの?

お正月って三ヶ日とともに去る感、ハンパない。
七草がゆを食べるまでもなく、すっかり平常運転モードです。

今日はオフ日ってこともあったので朝からラジオ聞きながらダラダラ過ごしていたら
妙なことを思いつき、赴くままにTwitterに連投していたことや
3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を観に行って思ったことなどを
備忘録的にまとめとこーっと、ていうブログです、今回は。
ブログってまとめに便利だなー、て本当に思う。


今日朝起きて、とくに夜まで予定もないしボケーッとダラダラしていたら
突然脳裏にダンスとして架空の拳法を作り、その型を一子相伝の巻物に記して、
各流派がお互いに奪い合う、という謎のダンス作品のアイデアが。
発作的に思い浮かんだアイデアな訳だけども、呟きながらよくよく吟味してみると
バトル漫画やフィギュアの解説みたいにすごさを解説してくれたり
すごい感を醸し出してくれたら見やすいというか、いいのかもね、と。
ネタなのかガチなのか、皮肉なのかわからないけどこうゆうのもあるし↓
https://www.youtube.com/watch?v=YVFPbteyPNM

思えば「少年チャンプル」やダンス甲子園がダンスの流行に一役買っているから
「バトル」という要素は多数にアクセスしやすい。
勝敗をつけるとか、点数化するということの弊害はさておきなのだけどもね。
でもいわゆるコンテンポラリーダンスってやつはみんな違ってみんなイイ、
という部分から発している部分もあるので勝敗を付けるのが難しいわけだけども。
個人の趣向に寄るところが大きいし。
だから業界、として成り立たせるのが難しいんよね、そもそも。
業界を生成しにくいから大きな物語(≒レール)が無い、良くも悪くも。
コンペティションで賞を取ったらゴール?教育機関で教える様になったらゴール?
海外に作品を持っていけたらゴール?
どれもゴールのようで、スタートのようでもある。
いつまでたっても各人がそれぞれの独自性を貫く感じ。
それぞれが「個(孤)」だから。

でも流行廃り潮流みたいなものはあるし、
コンペティションで賞を取る人もいるわけで。


そんなこんなを思いつつ、3日連続で「ダンスがみたい!新人シリーズ15」を。
思い巡ったことはなぜみんな作品を創るのだろう?ということと
劇場で作品を上演することについて。

踊る場所・機会が無い、踊っていくための焦り、が
作品を創る動機になっていないだろうか?
作品を創るのは自分が表現したいことがあるから?創りたいものがあるから?
1年に新作1つは作品を創らないと、ていう妙な義務感?
実際出場者の方々の胸の内は計り知れないので想像でしかないのだけど、
ダンサーの現状、ダンス界をとりまく現状などを思うと
そんな思いがよぎりました。
舞台の上でしか踊ることは許されていないのか?
人目に晒さないといけないのか?

そしてその発表の場は「劇場」が合っているのか?
ギャラリーにYoutube、いまや発表の場は沢山あるのだよ?
...いや、確かに「踊ってみた!」とかいっていきなりYoutubeで全世界に
自分のダンス晒しちゃう飛躍っぷりもそれはそれですごいと思うのだけど。
たしかに「劇場」は作品、表現に対して優しい、安全な場所だというのはわかる。
しかし一方でとてもバリアフルで、排他的な場所でもある。

そんなこんなが自戒も込めて頭をグルグル巡りました。
みんなどんな思いで「劇場」のために作品を創り、発表するのだろう、と。
思えば去年この「ダンスがみたい!新人シリーズ」で発表した
ソロ「be here」はそんなことも思いながら作品にしてたかもね。

帰りの電車で、
同じく新人シリーズを観に来ていたらしき見知らぬ3人組のおばさま方がいて、
感想を言い合っていたので盗み聞きしてみると、
やはり身内贔屓になるというか、身内への想像力ハンパないなー、と興味深く。
身内以外への想像力の欠如は民主主義の崩壊みたいです↓
https://t.co/C3UzXSJOEG (2017年2月6日まで)

話が脱線しました。

思い直してみて、大抵ダンスを観に行くときは身内が関わっているときです。
ダンスに限ったことではないですが、全く知らない人の作品を観に行きたい、と
思えないのがひとつの問題なのだよな、と。
たまに観に行くとしても口コミや話題性を糧にするわけだし。
そこを解決するのが評論家という方々の仕事だと思うワケだが、
批評が宣伝になってしまってはダメだし、実際日本の舞踊評論はゴニョゴニョ...

先程も述べた様に、ダンスは「個(孤)」なモノ。
とくに(日本の)コンテンポラリーダンスは多様性を出発点にしている、と言える。
だから「ダンス、どれから観たらいいですか?」てすごい難しい質問だし、
多様すぎるダンスのどれを入口にするか、
てそのあともダンスを観てくれるかどうかに関わる大きな問題。
個人的にもダンスの宣伝をするのを憚られたりするのはその部分。
こうゆう趣向の人にはこのダンス、という薦め方はできるけど、
そんなにみんな自分の「目」を知っているか、つーとまた別の話だし...


色んなことに思い巡りました、ホント。


でも自分を顧みて
ワクワクするアイデアや楽しい、ていうのがあるから作品作っているな、と。
そこは大事にしていきたいと思ったし、やれることはやろう、と思いました。

もうちょっと書きたいことはあったのだけど、
今日の話とは上手く繫がらないというかまとめる自信無いっていうか、
もう寝たいので寝ます。

2017/01/01

ス。






















あけましておめでとうございます。
旧年は大変にお世話になりました、と言いますか
駄文にお付き合い頂きありがとうございました。

今年は2017年。
"2017"は素数です。"2017"の"2"と"1"と"7"も素数です。
"0"に関しては…素数なのかはよくわかりません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352181478?__ysp=77yQIOiHqueEtuaVsA%3D%3D
http://media.qikeru.me/%E8%87%AA%E7%84%B6%E6%95%B00/
こんなことも書かれているの、よくわかりません。

そんなことは置いておきまして。
"2017"は素数なので、皆様の2017年が素敵な、素晴らしい年になりますように。

と、きれいに冒頭を締めようかとも思うのですが
年賀状の印刷するためにデータをコンビニで出力するも誤字脱字を発見したり
色がきれいに出なかったりで光沢紙印刷を自宅と行ったり来たりしながら
3回も繰り返すという、ね。
そんなに苦労して印刷して書こうとしている年賀状も
業界的になのか世代的になのか、数が両親と比べて圧倒的に少ない、
というか元旦に届いたのは美容室からの1枚だけでショボーンとしてますが。

そんなすべり出しの2017年。

さて、2017年の話をする前に、2016年を軽く振り返っておこうかと。


年間を通してありがたいことに様々な作品に関わらせていただきました。
2016年を終えてみて思うことは
「ダンス」はもっと自由でイイ、ということ。
劇場という空間に、60分というパッケージに落とし込まなくてもイイ、
もっと自由であるべきだ、ということ。

逆に言えば劇場という空間に何を求めるのか、何を求めているのか。
劇場のプロセニアムアーチ のことを額縁、と言う様に
劇場の作品に私たちは価値や作品性を求めるのだと思います。
この辺りは2016年6月のブログでも触れていて、今自分でも読み返して
ほー、なるほどなー、と思ったりもします。

小劇場の置かれている状況みたいなことについて
2016年の新作ソロ「be here」や
大人少年「現代劇作家シリーズ5:J.P-サルトル『出口なし』フェスティバル」で
お世話になったd-倉庫の林さんが文章でまとめていたりするのですが
劇場に持ち込んで作品化する、ということにある種抵抗みたいなモノが
生まれているのかもしれないなぁ、と思ったりもします。

作為性や演出、物語性が疎まれるような。
リアルや本当である、ということばかり作品に求めているのかもしれません。
まぁ現実的な話をすると予算的に難しい、てことなのだと思いますけどね笑

そんなことを思ったりしましたので、
劇場で作品やるならガッツリ「作品」 という感じのことをやるべきだな、と。
2016年はソロしか作っていなかったので今年は作品作りたいなー、て
思っています。
でもそれも上演作品に限らず、映像でもいいのかも、と思っています。
さっきも述べた様に「ダンス」はもっと自由でイイ、ですし。
劇場で作品やるなら「ダンス」ということにこだわらず、
もっと総合的な作品として作り上げられたらいいな、と。

なんかねー、最近はもう「ダンス」がどうのこーのっていうことより
ダンスや身体という方法論を、ベースを使ってなにかする、
ぐらいのざっくりした感じでイイ、と思っています。
それは作品を作ることに限らず、環境づくりとかでもいいのかもしれないし。
コンテンポラリーとかヒップホップとかバレエとか、
ジャンルでぐだぐだ言うのも面倒くせーや、てな感じです。

はい、突然口調が悪くなったような気もしますが...

そんなこんなで2017年の目標は「変化」と「挑戦」にしようかと思っています。
なにかと移ろいゆき、不安定で、先行きの見えない現代ですが
その変化に対して柔軟に、迷いながらも清濁併せ飲み
サバイバルしていきたいです。

このような感じで、相変わらずのペースでやっていきますが
本年もよろしくお願い致します。