2016/11/10

さよならアメリカ、さよならニッポン。


アメリカの新大統領、トランプ氏になりましたねー。
どっちもどっちだ、みたいな話もありましたがイギリスのEU脱退に続き
世界全体としてなにか不穏な方向に向かっている感がありますね。
それは日本もご多望に漏れず、という感じで。

今日ラジオを聞いていて納得したのは、トランプの話は政策ではなく感情で訴える、
だから多くの人に響いた、という話。
感情で訴える、と言うと聞こえのいい様に思えますが
感情ていうのは誰しもが持っているもので、ある意味わかりやすい。
そして抗い難い、抗えない。だからそこを刺激する。

聞いていたラジオは「荒川強啓のデイキャッチ!」だったのですが
印象に残ったのが次のような話。

近年話し言葉の威力が強すぎて、書き言葉の力が弱くなっている。
いわば荒っぽい、感情的な本音のような言葉が
理性的な、知性の言葉を押え込んでいる。
…あー、なんかすごく頷けるなぁ、と。
「ぶっちゃけ」という前置きや噓のない(様に思われる)感情をむき出しにした言葉が
好まれているということなのでしょう。
冷静な、客観的な、温度の籠っていないような言葉よりも。

でも感情に、衝動にすべてを任せる、ということはとても危険なことだと思います。
そこを理性で制御しなければいけない。
別にそれは感情を蔑ろにするということではなく、
むしろ感情を大事にすることに繫がるんじゃないかと思います。
前述したように感情の強いエネルギーには抗えないです。
理性で抑えて抑えて抑え込んでも、
納得できないくらいの感情こそ大事にすべき。


感情的じゃない人間なんていないです。
それが制御できるかどうか、それだけだと思います。

感情って素晴らしい、そのとおりです。
でも感情だけに流されると恐ろしいことだとも思います。
そんなことを大統領選の話をするラジオを聞きながら、思いました。


さーて、日本はどうなるでしょう?
どうなろうとも、サバイヴするする強さ、改めてそこを目指して。

2016/11/08

戦争反対という、幻。

最近ブログの更新頻度が多いですね。…ええ、ご察しの通りヒマなのですよ。
とはいえ、12月末に出演する機会も頂いたのでまたそのリハが始まるので
束の間のヒマを楽しみつつ。
パフォーマンスの詳細は後日お届けできるかと。

さて、今日は昨日Twitterでこのような連投を見まして。
以下まとめ↓(Twitterの新機能でモーメントっていうのできたんですね)
"三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員)記者のつぶやきより南スーダンの現状" 
https://twitter.com/i/moments/795265656597848065

この記事を読んで、そしてその日のTwitterのTLの出来事が重なり
戦争反対、ていうのはなんとも虚ろな言葉だな、と思いまして。

とても耳障りのいい、言葉。
なんの反論の余地もない言葉。
しかしながら、なにも実のない言葉なのかも、と。
本当にそう思っているのかい?ということが問われる言葉な気がしました。

現代の戦争は非常に複雑で、政治も多く絡んでいます。
つまり、戦争って政治的なことともいえます。
「アーティストには政治的な話はしないで欲しい」
よく聞くことです。
https://www.instagram.com/p/BMaGgxhhwRi/
でも戦争反対、というアーティストにはきっと迷いもなく賛同するはず。
「アーティストには政治的な話はしないで欲しい」と言うことが
そもそも充分に政治的だし、
戦争反対、と言うことも充分に政治的なハズ。
政治的な発言をするアーティストが必ずしも政治的な作品を作る必要も義務もない。
でもそのアーティストの魅力ということには繫がるかと思います。
それは別に政治的な発言に限らず、なにに興味を持っているかということもそうだし、
アーティストに限らずどんな人にも当てはまることなのだと思います。

戦争反対というのであれば政治のことも話せ、ということともまた違うのですが
戦争反対、というだけで戦争が無くなるはずもなく
戦争の現状に目を向け、微力ながらもできることがあるのであればする。
それはニュースに関心を向けることかもしれないし、
日々周りの人たちに優しくすることなのかもしれないし、
一見全く戦争と関係のないことなのかもしれない。
何事に対しても何かしらやれることはあります。
結果何も変わらないことももちろんあります。

それでもやれることはある。
そしてそれは自分で決めればいい。

簡単にいえば言行一致てことだと思いますが、大事だよな、と改めて。
言葉はいくらでも理想を紡げるけど、理想を現実にするのは行動。

そしてこの文章も言葉で綴られるのです。

2016/11/06

続・身体の親近感。

先日更新したブログ、追記的に。

今日F/T16のプログラム「X /groove space」を観てきました。
前売を購入しようとしたときには既に全日程売り切れ、という予想外の事態に
こいつぁ当日券ゲットしてでも観るべきなのでは?
と、勝手に自分でハードル上げて観てきました。

個人的な感想としては易しい観客参加型、という印象。
というのも、お世話になっているGRINDER-MANのパフォーマンスで
回遊型というか、観客参加型といいますか、 似たようなパフォーマンス
何度か出演した頃がありまして…
擬似クラブ的な空間で音、暗さで観客を扇動しグルーヴを生む仕組みは
上手いと思いつつも物足りなさや蛇足に感じてしまう部分もあり、
しかしながらダンサーの在り方を素敵だなぁ、と思ったり。
観客として完全客観的な立場で参加してみることで、過去の出演作品と比して
興味深く楽しめました。


で、改めて「ダンスを誘発するのがダンサー」という持論。

「X /groove space」にて目が合うと微笑み、独特のリズムで動くダンサーたちを
観ていてそのように実感しました。


やはりね、いいダンスを観ていると踊りたくなるのですよ。
これは自分がダンサーだからなのかもしれませんが、周りの観客を観ていても
同様な気がしたので、多分間違いないと思います。
良いダンスは、ダンスを誘発する。


そんな身体感覚をビリビリと刺激されながら思ったのは
知的障害の人たちとダンスする時、
彼らの目にはこんな風に自分たちが映っているのかもな、ということ。

躍動する身体を目の前にして
身体感覚が刺激され、身体が疼き、動き出す。
それはひょっとしたら身体の親近感が引き起こすことなのかも、と。
お互いに身体を拓きあい、共鳴する。
それは実は別に特別なことではなくて。

ダンスを踊る身体は同時にダンスを観る身体でもある、ということ。

まとめると、観る側の身体というのも大きく作品に影響するんだよな、と改めて。
観客参加型でも腕を組んで壁に寄りかかって「なに観せてくれんの?」という態度も
客席のない空間で座り込んで「観客」として頑に居座る態度も
ノリノリで踊りだす観客の態度も
どれもアリだけど、得るものは違うと思います。
どれが良い悪い、というより好みの問題になるのでしょうけど。

だからひょっとしたら劇場っていうのは建物のことじゃなくて
身体が持ち込む鑑賞の在り方、と言えるのかもしれないですね。
作品にもよるのですが美術館的に作品を楽しむ態度も取れるだろうし。
ダンスの発表会だとクラブみたいなノリの時ありますしね笑

そうゆうところも考えだすと、身体って奥深すぎて目眩がする。

2016/11/04

身体の親近感。

秋をすっ飛ばして、一気に冬がきたのかってくらいの寒波ですね。
地球温暖化の影響でいよいよ四季の国・日本も危ぶまれてきているのでしょうか?

気がつきましたら10月が終わっていまして、11月です。
最近本当に時間が過ぎるのが早いなー、て思いながらも
今年の上半期のことを思ってみるとずいぶん昔のことに感じる。
時間ていうのは自分に対して直線で向かってくるから
相対的に近くほど早く感じるのかな、とふと思ったりもします。

10月は振り返ってみると、「プロ」ということを色々考えさせられる1月でした。

実は10月の中旬は某バレエ団の学校巡回公演にスタッフとして同行してまして、
いわゆるバレエ団の方々の生活を垣間みたのですが…
あー、これがプロの生活だよね、と。
毎日バーレッスン、クラスをし、舞台に立ち、お金を得る。
磨き上げられた身体による超絶技巧はそれだけで観るに値する。
やっぱりプロに伴うのはテクニックなんだよなー、と。
テクニックがある=職業として成り立つ、てことなのだろう、と。

プロとしてやっていくにはテクニックがいる。

と、そんなことを思うのと同時に…

バレエ団の方々を見ていて思ったのは、一緒に踊れそうにないな、ということ。
いわばバレエダンサーとはバレエに生活のすべてを捧げ、
バレエのための身体に仕上がっている、常人離れした身体。
それ故の超絶技巧だし、観る価値のある身体。
一緒に踊るにはその「バレエ」の世界へ踏み入れないといけないような感覚。
実際はそんなことはないのだろうけど、
超絶技巧によって「プロ」というものが明確に分かるが故に、壁を感じさせる感覚。

それにたいしていわゆる自分が属する「コンテンポラリー・ダンス」という世界。

必ずしもあるテクニックに根ざしたものではない、
自由(といわれている)な表現の世界。

テクニックということが絶対ではない世界。
でもそれって逆になにを以てプロ?とも思う部分。

もちろん色々なテクニックがあるのだけども、
その明確ではない部分がコミュニティダンスという入口を生んだり、
ワークショップやアウトリーチといった部分へ繫がりやすかったりするのだとも思う。

誰にでも拓かれたダンスである、ということ。
それであるが故に、プロであるということが明確ではない、ということ。
技術に依らない、生活者としての身体の、ダンス。
だからこそ感じる「身体の親近感」みたいなモノがあると思っていて。
最近の興味はそこにあるワケですが。


とまぁ、色々書いてきましたがこれは「日本」の話だと思います。
海外のコンテンポラリー・ダンサーはめちゃくちゃテクニックあるし。
でもテクニックがある身体っていうのは普通の人から見たら親近感を感じなく、
ダンスをよそよそしくするものなのだろうな、と。

踊る阿呆に、見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損

そんな言葉があるように、やはりダンスは踊るものだと思います、個人的には。

ダンスとの距離感を埋めてくれる身体と
観るダンスのための身体。

プロとして成り立つのは圧倒的に後者の身体。
でもそれが果たしてダンスとの距離感を埋めてくれるのか。
テクニックは大事。
でもテクニックを積めば積むほどに観客の身体とは遠くなっていくのかもしれない。

なんとも興味深いなぁ、と思っています。
とりあえずしっかりテクニックは身につけたいものだ、と気持を新たにしたのでした。