2012/10/23

AnswerとReaction。

朝方に転向しつつある日々です。
朝日とともに某カジュアルファッションブランド旗艦店にバイトへ行き、
午後はリハや現場でのバイトという生活はハードながらも
慣れとは恐ろしいもので、慣れてきました。
案外某カジュアルファッションブランド旗艦店でのバイトも
予想外に長続きするかも?と思いながらも、
今まで続けてきた自由なその日暮らしの甘い誘惑はとても強いわけです。
でもね、いまは目的があって働いてるからなんにせよ良いと思います。

慣れつつも、忘れないこと。

今日はアトリエ・ダンカン/デラシネラプロデュース「日々の暮らし方」を
観てきました。
その感想や思ったことをチョロチョロと。
多少ネタバレを含みます、多分。お読みになる場合はそのへんのご了承を。

面白かったです。
用意して頂いた席が良かったこともあるのでしょうが
舞台上の遠近感がとても印象的でした。
舞台上にある水槽の水が揺れて生む、不定な波に見蕩れました。
舞台空間にある家具が縁取る水平や垂直の線の中でユラユラと揺れる様が
不条理とういか、現実の、日常の不確かさを表すかの様で。
安部公房の「砂の女」を妻の視点から描いたような、
不条理の外にも不条理があるような、
「砂の女」に出てくる妻が「燃え尽きた地図」に出てくる依頼人の女に
重なるような感覚。
「不条理だ」という人の「合理」や「常識」は一体誰が認めるのか、
見る視点、立つ立場によって見え方、「日常」は違うのだなぁと
なんとなく感じさせる作品でした。
個人的には「HELLSING」の少佐の言葉が脳裏をよぎりました。

で、今回も感じたのは震災以後の変わってしまった自分、というもの。
以前もblogに書いたかもしれませんが、例えば散乱する大量の「モノ」に
イメージの中で泥をつけ「瓦礫」に変えて見てしまう、というようなこと。
ふとした節々に震災の影、
例えば行方不明者について語るシーンがあったりとか
揺れる水面を見て津波を想起したりだとか。
それは恣意的に演出されているのかはわかりませんが、
震災がなかったらきっとフックにならないことだったろうなぁと思うと、
日常生活に大きな変化はないけれども、
その日常生活をする自分たちは変わってしまったのだな。
日常ということはちょっとしたことで変わる、
そんなことを「日々の暮らし方」という作品を通して再確認した感じです。

公演の後、楽屋にご挨拶に伺ったときに
小野寺さんに震災のイメージをちょっと感じました、と感想を伝えたところ、
そうゆうことにも向き合わないとね〜、というようなことを仰ってました。
どのくらいのことが狙いだったのか、とかは聞きませんでしたが
「向き合う」という表現がなるほどなぁ、と感心しました。
SPACで「オイディプス」を演出していたときも「悲劇」と言い切らずに
結末をグレーにぼかした、というようなことを仰っていたのですが
このグレーにぼかす、というのがとてもいいなぁと思うのです。


震災以後ということからは逃れることはできない。
できないのであれば、それとどう向き合うのか、という話。
それは「答える」ことではなく、「応える」ことなのかな、と思う。
「答え」は「正しい」「間違え」という正否を生むような気がするからね。

放射能に関する諸々の実状といわれるものがFacebookやらtwitterに
流れてきますが、それを他人に強要することはできない気がしています。
確かにそれは「答え」なのかもしれないですし、
なにかアクションを起こさないと現実は変わらない、
ということも思っています。
しかし、それを強要することはできないように思います。
でも知らせることはできると思っています。
そこからはどのように各個人が動くか、で良いと思ってしまうのです。

日常に生じている「軋み」から目を逸らす感覚がそこにはある気がします。
例えばたまっていく洗濯物や洗い物、
机の上に積まれていくDMや公共料金、携帯電話料金の明細書。
それらから目を逸らし続けたら机は汚くなるし、
明日着る服は無くなってしまう。
まぁ実家暮らしの自分は洗濯してくださる方いるので
明日着る服が無くなるってことはないのですが笑

でも、そうゆう目を逸らしていても続いていく日常はあるわけです。
誰かがやってくれていることで、なりたつ日常。

その誰かという、不確かな存在が無くなった瞬間に日常は崩壊するのかぁ
と色々と飛躍したことを帰りの山手線の中でボーッと思っていました。
だからたまには自分でみんなの分も洗濯したり、机の上を片付けないとね笑

慣れきってしまった「日常」だけれども、
忘れてはいけない誰かの「日常」という「非日常」がある
そして今慣れている「日常」も既に変わってしまっている「日常」である、
ということを掘り起こしてくれる良い観劇体験でした。
28日まであうるすぽっとにて。面白い作品でした!

感想から色々飛躍してしまったな。もともとそのつもりだったわけだけども笑
でもいつも読んでくださっている方が(いるとしたら)
もうそのへんは慣れてくださっているのではないかな、と。

「慣れ」とは恐ろしい、ね。
明日も早起きです。

2012/10/16

終末からの月曜日。

今日は火曜日ですけども。
早起きは三文の得と言いますけど、確かにその通りで。
一日を朝からタップリ使えるので色々な用事が詰め込めます。
でもそんなお得な生活を続けるには早寝が欠かせないわけでして…
一日にたっぷり用事を詰め込める分、しっかり寝てないとこの時間にはもうしんどい。
それがここ数日の思うところ。

先週の土曜日あたりからなんだか不思議な空が続いていますね。


ネット上でも周りでも「地震雲か!?」と騒がれていたり。
単純にキレイだなー、と思っていたのでちょっと自分不謹慎なのかしら?と
若干思ってしまいました。


確かにキレイだけども、不吉に感じるのもわからなくはない。 


ちなみにこの写真↑はbow-wow打ち上げ明けの空。


(All photo affected by Instagram)

美しい風景にはなにか「終末」を感じさせるものがあるのかな、と思う。
というよりも、壮大なスケールな「なにか」(とくに自然)に対して
畏怖のようなものを感じ、それが「美しい」と感じることに繫がるのかも、と
ふと思う。

そんなこんなを思っていたら、小学校のときに原爆のキノコ雲を授業中に見て
誰かがそれに対して「キレイ」という表現を使ったことが問題になった、
というのを思い出した。
沢山の人の命を奪った原爆を「美しい」と感じるだなんて言語道断で不謹慎、
ということだったのでしょう。
でもそこにあったのがとてつもない「なにか」に対して感じる、
言い様のない畏怖感が「美しい」という言葉に変換されていたのだとしたら、
それも頷ける話だなぁ、と思うのでした。

現に、あのキノコ雲を原爆によるものです、と言われなければ
美しく感じるのかもしれない。
というか、美しいと感じなくもない。
でもそれを言うことを不謹慎と思われるとか、
そうゆう周りからの視線で自粛しているってことは
きっと多々あるんだろうな。

美醜とは何か、ということに繫がるのだろうな。
若いが美しいこととは限らない、死が忌むべきものとは限らない。

なんとなく思ったのは、そこに大きな「エネルギー」があるものは
畏怖を、美しさを感じさせるのかもしれないな、ということ。
その「エネルギー」がどんなものかは別として。

言葉の選択、表現って難しいものだな。
それの練習も兼ねての、ブログだったりするわけですね、これ。
だから多分、不謹慎な発言もいっぱいありますよ笑

でもその不謹慎な発言も一義的に捉えないでね、
という弁明を含めた備忘録でした。

風呂入って寝るだよ−、早起きで三文得するために!


2012/10/14

近況報告やら振り返りやら、ダラダラと。

すいません、ものすごくブログを放置していました。
4ヶ月も放置していました。
前回更新したのが梅雨時だったので、季節1つ丸々未更新です笑
そして久しぶりに更新しようと思ったら、
ブログ編集画面の仕様が変わっていたり。
4ヶ月で色々起こるものなのですね。
地味にHP更新していたり、twitterで毎日下らないことを含めて
呟いてはいたのですが、改めてブログ放置していたことを反省。

今日は近況報告やら告知やら、振り返りやらをダラダラと。


9月下旬からGRINDER-MAN「bow-wow」、自作ソロ「BPM」の発表、
そして大学時代のメンバーとの自主公演「おばけ」と立て続けに3週間、
毎週末公演をやっていました。
ご来場頂いた皆様、遅くなりましたがありがとうございました。


・GRINDER-MAN「bow-wow」
GRINDER-MANとしては久々の東京近郊での公演。
東京近郊での公演は初めて参加させて頂いた「MUSTANG MONO」以来か…
あれからもう4年経つんですね〜しみじみ…
今までGRINDER-MANの中核を担っていた方々が今回不在だったり、
「感情」ということにフォーカスしたり、とGRINDER-MAN的にも
新しい試みがある中、色々腑に落ちることがあったり、
新しい発見ができたりなど個人的にとても良い経験になりました。
メンバーも面白いメンバーが集まり、良い刺激を受けました。


・自作ソロ「BPM」
GRINDER-MANと並行しながら作っていたソロ作品。
じゅんじゅんさんのクリエイションWS「PhysicalDrawing」で
ソロ作品を作っているとはいえ、ゼロからテーマを探してきて
一人で作るソロは初挑戦でした。

いやー、なかなか大変でした。
まず稽古場でテンション上げるのが大変でした笑
一人だといくらでも怠けられるし、ギアを上げていくのが大変。
動き始めてしまえばバリバリ進むのですが、
意外とスロースタートになってしまうものなんですね。
なんだか色々勉強になりました。

さて、この「BPM」という作品の解説でも書いてみようかな、と。
この作品は本川達雄氏の著書「ゾウの時間ネズミの時間」に着想を得ました。
ざっくり本の内容を説明すると、
ゾウとネズミは1分間の心拍数がまったく違うのですが
生涯に打つ脈拍の数は同じ、ほ乳類全般が、生涯に打つ脈の数は同じ。
他にも食べる量と身体のサイズの話やらが載っていますが、
着想を得たのはこの「心拍数」の下り。

実の話をしますと、自分、この本をちゃんとは読んでいません笑
もちろん読んでないって相当ダメだとは思っているのですが…
絵本Ver.( http://amzn.to/X5o6qx )は読みました。
…あまりフォローになっていないけどね。

話は戻りまして、この生涯心拍数というヤツは
人間には当てはまらないらしいのですが、当てはまるとしたら…と
仮定して作品のテーマとしました。

心拍数を上げるということはある種の自傷・自殺行為。
踊るという命を削る行為。
そしてそれを舞台上で観せるということ。

去年の震災で「そんなことやっている場合じゃない」と
舞台を自粛しているところは沢山ありました。
でも自分のやっていることを「そんなこと」に堕したくはないな、という
思いがあり、ストレートに命を削っている行為だということを
表現してみようかな、と。

舞台に上がり、それに時間を割いて観に来てくださるお客さんがいる。
そのお客さんに見せられるものは何か。
時間を割く、ということは人生をそこに割くということ、
人生の一部を頂くということ。
その割いてくれた人生に何を提供できるのか。

万人に、平等に等速で流れる「時間」
その同じ「時間」を過ごしている中で見ているお客さんに
密度の高い「時間」≒高い心拍数・高いエネルギーの「時間」を提供する。
それをシンプルに「心拍数」ということに置き換えて可視化。
ざっくり説明するとそんな思いで作った作品でした。

創作ノートやらメモ書きを見てみたけど、上手く言葉にまとめられなく
ざっくりした説明になってしまった。
でも杉山至さんの言葉を借りるのなら言語化できないものだからこそ、
作品にするのだと思うのでそれはそれで良いのかな。
あとは見た人がどう思ったか、で良いのだと思います。

個人的にこの「BPM」という作品、深化させていきたいなぁと思っているので
今後も機会があればやりたいと思います。
デュオとかアンサンブルで作ってみるのも面白そうだし、
振付の内容よりも構成とかフレーム部分が重要なので
違う人に違う振付で踊ってもらうとかも面白そうと思ったり。


・Dance Omnibus「おばけ」
はい、怒濤の3週間の締めくくりは大学時代のメンバーとの
小作品オムニバスの自主公演でした。
大変でした、初めての自主公演は…
色々勉強になったなぁと言うのが正直なシンプルな感想。
去年の年末忘年会の企画が流れ流れて、かなりのロングスパンを経て
実現できたのは良かったと思います。

しかしまぁ、大変でした笑

でも観に来てくださった方々からご好評の声を頂いたりしているので
それを励みに、まだまだ未熟ではありますが頑張りたいと思います。


うん、夜も更けてきたので内容がざっくり雑になってきた笑


最後に近況報告。

11月にも舞台に出演させて頂きます。
大学時代にお世話になった恩師、
大学卒業後ダンステクニックの基礎を学んでいる師の
姉妹によるカンパニーsynapseの公演です。
詳細はコチラ↓
http://www.otona-shonen.com/Infomation/20121013.html

今までの自分にない詩的なアプローチ・ボキャブラリーに挑戦しています。
身体や動きから生まれる感情というよりもイメージから生む、ということ。
色々刺激を受けています。
ご都合よろしい方、ご興味ある方、ぜひご来場ください。
よろしくお願いします。

あと最近お金を貯めたいと思い、
某カジュアルファッションブランドの新規旗艦店でバイト始めました。
資本主義ってこーゆーことかぁ、と思いつつ働いています。
多分長続きしません笑
ちょっと自分の生活スタイルと合わないんだな。
でもとりあえず目的のためにお金が必要なので、働くよ!貯めるよ!

そんなこんなで久々に長文書いたので疲れました。
このへんで、また近々更新したいと思います。