2020/05/23

たかが「自粛」然れど「自粛」。

非常事態宣言から早1ヶ月、そーりからイベント等の自粛要請が出て早3ヶ月弱。
まもなく非常事態宣言も解除されそうな雰囲気が出てきていますが、個人的には表現の世界において暗澹たる思いがあります。
コロナ禍を経てソーシャル・ディスタンス(フィジカル・ディスタンス)や三密という言葉生まれ浸透していきましたが、それが表現にとって足かせになるのではないかと危惧しています。

劇場などのガイドライン都主導のアーティスト支援プログラムの対象作品条件などを見ていると、表現の自由のことを考えさせられます。コロナ以降はコロナ以前の様な表現は避け、自粛するべきなのか。
例えばエログロなシーンは昔からありますが、それがそのような行為を助長しているのかどうか?それと同様に身体的密着度の高い表現やいわゆる三密と呼ばれる表現が感染拡大を助長していると捉えるのか?
表現の自由というのは事ある毎に話題に上るものですし、それこそ去年のあいちトリエンナーレでは相当吹き上がった話題です。表現者にとっても鑑賞者にとっても大事な話題なはず。しかしこのコロナ禍という現状、思った以上にその話題が吹き上がる事なくずいぶんあっさりと表現を「自粛」し、表現の不自由を受け入れてしまっている様に思います。自分自身そのことに違和感を覚える様になったのはここ1〜2週間だし、「革命家・外山恒一×批評家・東浩紀 電撃対談」のニコ生の影響は非常に大きいのだけど。
コロナ禍に伴う感染拡大防止という正義の名の下の「自粛」、それは表現への「自粛」にも繋がっているのにあまりに無自覚にアーティストは受け入れちゃってるのでは?表現の自由云々の話題になるときは普段ならもっと吹き上がるのに、今回は「自粛と補償はセットだろ!」という方向にばかり話が膨らみすぎたというか。
ていうかアーティストなんて元々河原乞食みたいなもんだからそもそも何に殉ずるの?みたいなことでもある気がしている。もちろんお金は大事ですし、人のスキルや創作物にお金を払う文化は大事だと思っています。助成金に依存し続ける様な形じゃ早かれ遅かれ芸術文化は死に絶えるだろうし、その程度で死に絶えるんならその程度だし、その程度にアーティストが芸術文化を堕したのだとも思います。

表現は時に人を傷つけるし、必ずしも受け入れられるものとは限りません。その中で表現者は表現する責任を負って、それでも表現するか否かはその手に委ねられている。表現の自由ってそうゆうことなのでは?だからアーティストの美学や信念、哲学が宿るのではないんですかね?
だからコロナ禍になったからマスクつけて新しい表現の模索を!とかソーシャルディスタンスを保った上で新しい表現が生まれるのでは?とかリモートならではの表現を!ていうのもわからなくもないんですけど、自分の信念に沿って表現したいことに最も適した表現方法を選んだらいいんじゃないかと思っています。コロナだなんだって意識しなくても残念ながら私たちの意識はコロナ以前には戻れないわけで。それは311でも十分経験してるわけじゃないですか。


以前とは同じ様には観れないと思います。


感染拡大防止の観点から〜〜な表現は避けてください。

この状況下ではすんなりと受け入れられる文言だと思いますが、少し立ち止まって考える必要があるのではないかな、と思っています。そこは自覚的に「自粛」するのか。そこに自覚がないのであれば、表現はいずれ死ぬと思います。
そのうち〜〜な表現を含んでいるものには助成金出せません、みたいな話にもなってくる様な危惧もあります。その時になって初めて「あれ?」と思うのでは遅いでしょう。
今から違和感を感じていたい。


まだ「自粛」で済んでいます。たかが「自粛」です。でも然れど「自粛」です。


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