2013/11/21

引き出しの中身を確かめる。お気に入りのヨレヨレのTシャツを、どう着こなすか。

ね、ね、ね、ね、眠い。
完全に睡眠不足でした、今週は。
今日は自主練の日。



寒くなってきたからか、寒くなると古傷が痛むという言葉を体験中。
でも傷口が痛む、ていうより筋肉がピキピキいう感じなんですよね。
と、ちょっとビビりながらも前半は丁寧にウォームアップ。
暖房なんかも入れちゃったりして、
弛ませるところから、しっかりと筋肉を伸ばしていく。



前半はソロのリサーチワーク。
全体の構成は決まっているのだけど、細かい振りなどが決まっていないので。
個人的に創作をする時に「言葉」から始まりがちで、
そうするとコンセプチュアルというか、テーマ偏重というか、
具体的になりすぎると言うか、アタマでっかちになりがち。
それをどのように身体に落とし込んで、面白いモノにするか。
身体に落とし込むことで、抽象化を図る。

先日「ダンスがみたい」という言葉を考えてみた。
それは躍動する身体としての「ダンス」がみたいのか、
それとも「ダンス」作品が見たいのか、
で「ダンス」の捉え方って違うな、と思ってみたり。
作品を構成する要素としての、手段としての「ダンス」なのか
純粋ともいえるような、目的としての「ダンス」なのか。
観客はどちらが見たいのかは人それぞれだろうから、いい塩梅が必要。



多少話は脱線しまして…
後半は即興を。今日は5分くらい1セットで。
最近即興のコトを色々試しながら考えている中で、
自分の持っている引き出しの中身を確かめるためにやっていることに
気がつきました。いや、元から多分そのつもりだったのだけど…
より具体的に目的が言語化できたというか。

自分がどんな引き出しを持っているか、意外と知らないモノです。
しかもとくに「型」を持っているワケではないのでなおさら。
それを知る為にやっているんだなー、と。

即興は引き出しの中身をどれだけ引っ張りだせるか、な気がしています。
引き出しっていうのはボキャブラリーであり、動く為のルール。
瞬発的にそれらを出したり、提示すること、を即興と考えてみました。
なので1本目は動きのルールを決めてみて即興。

5分とかになると直接貼れないのか?
しょうがないのでYouTube経由で。


とかいいつつも、
結局ルールを遵守して動いていたのは最初1分弱くらいまでっていう笑
あかんね、ルールが変わっていくのはいいのだけど常に意識しないと。



で、2本目はじゃあ1本目とは違う感じで、ていうので。

http://www.youtube.com/watch?v=PxC8j00lmhk&feature=youtu.be

あー、なんだろね、この既視感のある感じ笑
引き出しの中にある、お気に入りのTシャツ、コレ。
個人的には着古されてヨレヨレになっちゃっている感じ。
しかもジャンプしようとしている時のアワアワ感ったらないね笑

でも動画に撮ってみて気がついたのは
立ち状態での頭の高さの変化が乏しい、ということ。
床とかはあるのだけど、頭の高さの変化の選択肢がほぼ床のみ。
つまり「立っている状態で頭の高さを変えて動く」というルールを足せそう。

今日やって見て気がついたのだけど、こうやって動画に即興を撮って
それを分析すると新たな動きの為のルールが発見できる。
コレは良い発見です。
おそらくまだ自分の引き出しの中にない動きのルール。

ヨレヨレのTシャツみたいな着古された既視感バリバリのモノでも
新たなルールを加えることでまた違う見え方がしてくるのでは?ということ。

いうなれば、おしゃれの哲学!

ん?違うか?
でもそうなんじゃないでしょうか?
ちょっと次回はそのへんを試してみれたら。



といった具合に自分にとっての新しい動きのルール、ボキャブラリー、引き出しを
見つけられるのは楽しいです。

ていうか、そろそろちゃんとしっかり衣替えしないとな。
クローゼットの中も外も混沌としています。

2013/11/16

郊外への憧憬。

すごいね、今週3回目の更新です。
ブログ更新しようとすると長文になるからちょっと億劫なんですね。

今日はまさに久々に完全なるオフ、て感じでした。
最近はオフの定義がよくわからなくなっていて、
バイト行ってない日は夜に稽古があったとしてもオフの感覚です。
そんな中でも今日は完全なるオフ、一日何も予定無し。

油断していると一日寝て過ごしてしまうので、オフだけど目覚ましをかけ
9時には起床。
だらだら〜っとTwitterなどを見ていると…


「首都圏外郭放水路」の特別見学会が今週末に開催

という記事を発見。「ナ、ナンダッテ〜!?」という感じで
一気にテンションが上がり、そのまま春日部へ。



電車とかバスに揺られること2時間弱、到着。



カビ臭さというか、湿度の籠ったコンクリートの臭いというか、
スキーレンタルのお店の臭いというか…
独特な臭いの立ちこめる約100段の階段を下りていくと


いいね、この螺旋階段見上げる感じ。
上からも撮りたかったけど、監視員のおじさんが
「立ち止まって撮影しないでくださーい」と釘をさすので断念。
足下の明滅する水銀灯?もなんだかグッドな演出。



そして…


ドーン、と。

窮屈な感じのある階段室から一気に広い空間に出る瞬間は
思わずニヤついちゃいました笑
シャトルバスに揺られているときや地上では
一般開放日だけあって混んでるなー、と思っていたのですが
地下の巨大空間に降りてみたら広々。
人がいなかったら本当に神秘的な、地下巨大神殿な感じ。














近くで見れなかったけど、この立坑もいい感じ。
うーーん、たまらんね!
こうゆうとこでパフォーマンスとかやりたいです。

地上に還ってきますと、施設付随のグラウンドでお祭りが。
ちょっと遅めの昼食を屋台ですます。
グラウンドではよさこいのパフォーマンス。



日本人にはこうゆう「祭り」をベースにした身体性っていうのは
あるはずなんだよな、とか。
あと「ジャンプ」と「跳ねる」はニュアンスが違う感じがする。
「跳ねる」は日本的な感じというか、「地上的」なイメージ。
床へエネルギーを伝えて、跳ぶ感じ。
「ジャンプ」は西洋的というか、「天上的」なイメージ。
床へのエネルギーというより、ひたすら高く!なイメージ。
そんなことをハネトっぽい動きを見ていて思いました。
あとは中学生くらいになると学校で見る姿とは違うほんのりコスプレ感に
ドキッとするんやろなーとかどーでもいいことを思いながら見ていました。
OBの話を円になって休めの姿勢で聞いている姿を見たり、
ブルーシートを敷いてやんややんやしている姿などを見ていて
地元のお祭りの、小さな社会が垣間見える感じとかも面白かったです。

こういったローカルな感じのお祭りを見ていると
「郊外」っていいなー、と思う。
地域社会があって、そのなかでの上下関係や憧れ、みたいな物語が見えて。
よさこいを踊る地元のお兄さんに憧れて、男の子がよさこいを始める、とか
大漁旗を振るう地元のお兄さんの二の腕によって何かが目覚める、とか
お祭りで踊る、学校とは違う一面を見せる男子にドキッとする女子、とか。
最後のは完全に「鈴木先生」ですけども笑

東京生まれ東京育ちの自分にとってはあまり馴染みのない感じ。
そもそもそんな物語があるのか知らんけども、勝手な妄想。
でも故郷がある、ていうのはそうゆう物語を孕んでいたりして憧れますよ。
絶対に手に入れられないものですからね、自分には。



そんな春日部から電車一本で地元まで帰れてしまうのがなんだか不思議。
馴染みの無い土地から出る電車の行き先表示が
いつも使っている電車の行き先表示と同じというのはなんだか不思議。


途中渋谷で鞄と眼鏡を新調。
眼鏡は度が強いので2週間ほどかかるらしい。
ボロになった鞄は、7年近くの付き合いだったけども、さようなら。


そんなこんなで、久々に充実したオフ、でした。
それにしても郊外と椎名林檎の「無罪モラトリアム」の相性は最高だな、と
帰りに聴いていながら思いました。
このくらいの季節に、郊外のバス停とか駅で
ベースorギターを背負った女子高生がヘッドホンで聴いているイメージがある、
「無罪モラトリアム」というアルバムは。

2013/11/14

コンタクトとフロアワークの共通点。

寒いですね、いや本当に寒いですね。
めっきり寒くなったのに街路樹のイチョウは色づかないなーと思っています。


今日は昨日の夕方から朝まで働いて帰宅し、
寝て起きたら夕方だったので何ともオフを無駄にしたなー、と
がっかりしながらも自主練へ。

もうダラダラだモードだったのですが
前回の経験からアップすればそれなりに心身のコンディション上がるだろうと
思っていたのですが、今日はそうでもなかったですね。
心身ともにダラ〜んとした感じだったので、いつものをアップをしたあとは
ユカダイスキーということでフロアワークをウダウダと。


持論としてフロアワークは床とのコンタクトと考えると、
コンタクトインプロとの共通項があるのではないか、と思っています。
なのでちょっと今日はそのへんを試してみました。
床とコンタクトするように接点を移動していく、みたいな。
意識の仕方としては面白かったけど、
そこまで面白い動きは生まれなかったですね。
それよりもいつものように身体の内側のコネクションを意識して
即興的にフロアを動いた方がダイナミックな動きになる感じ。

ただやはりフロアの動きは既視感を生みやすいというか、
自分で動いていても「あ〜、さっきもこの動きやったなぁ〜」というのが多々。

もうちょっとコンタクトとフロアワークの関連性みたいなものは要研究で。


2013/11/13

フレーム。

おお、珍しくブログが頻繁に更新できているではないですか!
つまりは最近暇なんですね。
というよりも最近生活のペース、リズムがいい感じ。
大学卒業して5年くらい経つけど、やっといいリズムが刻めるようになった感じ。
でも多分、昔ほど無理して徹夜の現場とか入れなくなったのもあるんだな笑


今日はF/T13のプログラム、シアタースタジオ・インドネシアの公演
「オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー」を観てきました。
池袋の東京芸術劇場前、西口公園に竹で組まれた舞台で行われる作品。
竹で組まれた舞台は楽器にもなるし、装置がぶつかり合う衝撃を伝えるし、
なんともアトラクション的な要素を含んだものでした。
街頭で野外公演に対抗するように張り上げられる客引きの声などが
いい具合に作品にもマッチしていて面白かったのですが
なんとなく個人的にはピンとこなかった。

民俗的な儀式とか祭事と芸術は同じ線上にあるようなものなんでしょうが、
そのへんの違い、みたいなことかとなんとなく感じました。
「作品」というフレームに入れれば儀式も作品化する、みたいな。
フレームに入れれば「作品」になる感じ。

以前父が道端でペシャンコになった空き缶を拾ってきて、
額縁に入れて飾っていたのだが、確かに「作品」らしくみえるのだ。

作品か儀式か、ていうことが問題なのではなくて
その「フレーム」の中にいれるとそう見えてくるというのが面白いなぁと
思いました。
同じひとつのものでも違う「フレーム」に入れたら、違う様に見えてくる、
違う様に評価されていく、ということ。
新しさはその「フレーム」の中だけでのことだったりするのも、ある。

そんなことを考えてみれば、やれることは沢山あるのかもしれないな、
と思いました。


そんなこんなを考えていたら、大学の卒業制作の頃のことを思い出しました。
ウチの母校では創作民俗舞踊というものがあります。
民俗的な踊りをリサーチし、
それをベースに舞台舞踊作品を創作する、というものなのですが
民俗的な、儀式や生活に付随する踊りを
舞台上で行われる舞踊作品にする、というのと
儀式的な要素を作品に取り込む、というのに何かシンパシーを感じたんですね。

「作品」にするにはなにが必要なのか、てことなのかもしれない。
それは例えばフォーメーションだったり、照明だったり。
つまり見せ方、てコトなんではないかと思いました。

「フレーム」とは「見せ方」でもあり、「見方」でもある。
フムフム、なるほどねー
話が二転三転するかと思ったら、意外と戻ってきました。
いい具合にまとまったので、おしまい。


2013/11/06

型と即興。

うん、ちゃんと定期的に書くことを決めておくと更新できるものですね。
今日も独りで自主練を。


稽古場についたものの、妙な狭さというか部屋の白さというか、床硬いし
なんだか違和感を覚える稽古場でモチベーションがなかなか上がらず。
独りで稽古する時はモチベーション上げが難しく、
稽古場の選び方も大事だよなー
と、半分もう今日は無理な雰囲気を醸し出しながらウダウダ始める。

そんなウダウダとウォーミングアップをしながら思ったのは
こうゆうときに「型」があるというのが便利なのだな、と思う。
モチベーションが上がらなくても、ある一連のものを経由することで
身体のコンディションとともにモチベーションも上がってくるような。
例えばバレエのバーレッスン、とか。

以前にTwitterでも呟いたことなのだが、
身体というのは日々の積み重ねの賜物、結果であるということ。
定期的に同じクラスに通ったらそこの身体が身に身に染み付くだろう、と。
だから例えばカンパニーとしてオリジナリティーていうのは
どんなクラス、メソッドが使われているのか、っていうことなんじゃないか、とね。

「型」として何度も何度も身体を通したものはやはり身に滲みていて、
「型」を通すことで身体がリセットすることもあるのではないだろうか。
個人にとってのベーシックな身体とか身体使いが「型」を通してよみがえる、
「型」を通してそこにリセットされる、みたいな考え。
小野寺さんとご一緒させて頂いた時にした「型」を身につけるといい、
みたいな話はこうゆうところにも繫がってくるんでしょうね。

「型」を持っていない自分にとっての「型」≒ベーシックな身体って
なんだろうなー、と思いながら
先日8月の公演の稽古の時にアップでいつもやっていた動きを
やりながら分析してみる。

ひとつ見えてきたのは背骨をベースにしたような身体の考え方があるっぽい。
というか骨の連動性とかコネクション、みたいな話。
なるほどね、やはり長いことご一緒している方々の影響は色濃いのだな、と笑

あと胸・肩周りを意外とグニャグニャさせる動きがベースにあるな、
という発見。
アイソレーション的というか外力的な動きというか
かなりざっくり言うと人形振り的とか、
糸とかで引っ張られるイメージの動き。
多分大学在学中に初めて作った作品の監修でマイムの先生が入ったのとか
その作品の時にトレーニングの参考としてhttp://amzn.to/HHfFPh
使っていたからとかが関係してるんだろうな。
フムフム、こうやって分析すると面白いな笑

でもあれなんですよ、胸・肩周りがグニャグニャするっていうのは
肩周りの柔軟性に富むっていうのがある一方で
胸の安定性が弱い、っていう弱点もある訳ですよ、コレ。
モノを使って動いたりする時に意外とこの胸の安定性のなさっていうのは
表現としてネックになるらしく、
だから意識的にそうゆう弱点はカバーしないとね、てこと。



そんなこんなでウォームアップしていたら意外と楽しくなってきて
そこに階下から邦楽を奏で唄う楽しげな様子が。
よし、じゃあ今日はコレに合わせて即興してみますかってことで。

で、その様子を動画に納めて分析してみたり


フームフムフム
胸・肩周りグニャグニャしてますね笑
とりあえず思ったのは…

・手の形って大事
・ちょっとした瞬間の肩のラインの違和感
・ジャンプ全くしないな、この人
・動きの既視感というよりも静止とかスピードとのメリハリ
・正面性って知ってる?キミ

てとこですかね。
手の形っていうのはずいぶん前にGRINDER-MANの稽古の時に言われたなぁ…
つねに卵を握った形をしている、みたいな笑
でも手の形って結構重要で、全然質感が変わってくるんですよね。

スピードのメリハリに関してはやはり大事だな、と。
即興をやる時にしても振りを作る時にしてもリズム感というか、
時間の流れ方みたいなのはもともと結構意識しているとはいえ、
もっとやってもいいんだ、ということなんだな。
ベタ過ぎるだろ、この展開は…ていう時間の変化も
やはりベタはベタというか王道というか、ある種安定してハッとさせられる。
無意識的にそのベタを避けがちなんだろうけど、
そこには絶対的では無いにせよ、なんとなくの正解・不正解がある。
だから「間が悪い」と思ったりするわけです。
あと「とまる」とか「待つ」が舞台上で出来る人は強い、
っていうのが持論であるのですが、再実感。

ジャンプしないなのは…ジャンプのボキャブラリーが少ないのだね、この人笑
次やる時はちょっと意識してみようかと思います。

ちょっとした瞬間の肩のラインっていうのは…なんだろう?
漫然と動いちゃっているということなのだろうか?意識が通ってない感じ。
これは全くのテーマ無しで動いているわけですけども、
即興とはいえなにかテーマは必要というか、拠り所があった方が
観ていても面白いし、強さがあるんだろうな。
それはなにも身体のインテンションに限らずとも
音楽とかでもいいだろうし。


話はかなりズレますが、
先日仮面をつけて即興をする会というのに参加させて頂いた時に
役者とダンサーの即興って違うんだな〜と思いました。
ダンサーはその場でそのまま身体を動かしていくのに対して
役者の方はキャラクターとか物語をその場で設定して、それを表現する、
みたいな違いを感じました。
その時は多分持っている表現言語の違いがそこに出ているんだなぁ、とか
「即興」という言葉の厳密さの違いを面白く思っていたのですが
よくよく考えたらダンサーも動きのルールを決めて動いた方が
強度はあるんだよな、と今日思いました。
というかもともとそれは知っていたんだけど、思い出した感じです。

だから本当に即興と言われた場合でも、どのようにその場で「ルール」を
提示していくか、ノッていくか、逸れていくか…
それが即興を面白くするのだと思います。
よくよく考えればコンタクト・インプロヴィゼーションも
「コンタクトしている」というルール(≒縛り)があるってことなんだよね。


はい、話は戻りまして…
いや、多分とくに戻りはしないのだろうけども。
なんだかいろいろ発見とか再実感がある充実した稽古でした。
最初は自分で動画撮影して分析するだけじゃなくて、
それをblogに載っけちゃうとか正直どうなん?と思ったけど
意外とこうやって記録しておくと後々読み返した時に面白かったりするのは
実感としてあるので、今後もやろうと思います。
でもあれだ、web上にアップしても恥ずかしくないモノにしないとアカンですね。

2013/11/01

動きの近似値をとる為の「振付」

でた、ブログ放置。
およそ2ヶ月も放置してしまいました。
まぁさしてブログに書くようなことが無かったと言えば無かったのですが、
北海道に行ったりしてました。
…絶好のブログのネタなのにね、北海道旅行とか笑
今度暇な時にまとめます、多分。


最近、といっても今日でまだ2回目なのですが自主練をしています。
目的としては来年の1月にやるソロ作品のためのリサーチと
振りを作る能力の向上、即興ではなく振付で動くということを考えるためです。
というのも、どうやら自分は即興で動く方が良い動きをするらしく、
それもなんだか癪な話だなぁと思いまして。


そんなこんなで放置気味だった訳ですが、
その放置予防の為にも今個人でやっている自主練習のことを備忘録的に
まとめておこうかなー、と。
練習中に思ったことやら、考察などをちゃんと文章にすることで
また見えてくるものがあるのかもしれないし。


今日は「振付」について考えながら稽古を。
1月にやろうと思っている作品はなにか形をとっていく動きとか
シームレスな動きのコンビネーションというよりも、
あるイメージとかインスピレーション、
身体の仕組みをベースに作ろうと思っていて
でもそれが「即興」になりたくはないなぁと思っています。

となるとどこからが「振付」で「即興」なのか、みたいな話になってきて
「別にそんな定義付けとかどーでもよくね?」とも思うけれども。


話は戻りまして…
とりあえず今日やってみたのは動詞?インテンション?のみを決めておく。
それも「振付」なんじゃない?てことで。

(例)
右の掌の匂いを嗅ぐ

多分動き的には即興的なものになるから動きの完全な再現性は無い。
でも動きとしてのクオリティーの近似値はとれる、はず。
「振付」とは動きの再現性を作ることなのか、ていう疑問も出てきて面白い。
フォーメーションとか群舞とかになってくると
再現させるため、合わせるための「振付」が必要になってくるのだろうけど
もうちょっとざっくりした「振付」の考え方があってもいいのではないかな、てこと。

そんなこんなを考えていたらカウントで踊るのか、カウントと踊るのか、
音楽で踊るのか、音楽と踊るのか…
言葉のあやかもしれないけど考え方としては大事なのかな、と思ったのです。
カウントで踊れていても、他の人とは踊れていない、ということはありえる。
群舞として何を重視するかってことなのかもしれないし
最終目的が何なのかってこと。
みんなで合わせることが目的で、その方法論としてカウントを使うのか
カウントに合わせて踊ることが最終目的なのか。
そういったことも頭に浮かんできて、やはり文章化するというのは面白い。


今日思ったのは「振付」というものに何を求めるか、
てことなんでしょうね、多分。
動きの再現性なのか、意識のフローなのか。
それはきっと振付家によって異なることだろうし、好みもある。

なんとなく今日腑に落ちた考え方としては
『動きの近似値をとる為の「振付」』という考え方。