2013/12/31

はっぴぃえんどは幸せな結末。

はい、大晦日。
2013年も今日で終わり。
2013年最後の日に悲しいニュースも。
ご冥福をお祈りします、大瀧詠一さん。


今年最後ってことで振り返ります、2013年。


大きなところでいうと2月の右膝外側半月板損傷・ロッキング、
それに伴う3月の手術。



8月の初の自主公演。

てところでしょうか。



前者、初の故障、手術。
ダンサーには怪我はつきもの?だから仕方のないことですね。
自分の身体的弱点もわかったことだし、
そこをカバーしながら続けるってこと。
この怪我を言い訳にしてはいけないのだ。
術後初の冬で、右膝になんとなく出る違和感に戸惑いながらも、
何故か左膝が痛むことにビビりながらも、ここで止まるわけにはいかない。
止まってしまうことは申し訳ない。
今まで以上にハードな作品にも耐えられる身体に絶賛鍛え直し中です。

より自分の身体と対話しようという気持ちが強まったと思えばいいのです。
死ぬまでずっと一緒にいてくれる、一生涯の玩具なのだから大切に。



後者、初の自主公演。
ずっと作品を作りたいと思ってきて、その願いをひとまず達成。
至らない点も反省点も多々ありながら、
次へまた進もうと思えているからいいのです。

後悔はない。



去年の大晦日は何書いていたのかしら?と
振り返ってみると、去年は「助走」の年だったらしい笑
「助走」してどうなったのか、はよくわかりません。
まだまだ「助走」中なのかもしれません。
ていうか、一生「助走」なのかもしれません。

不思議なことに「完璧」というものは嘘くさい、というのは持論。
でも「完璧」は目指さなくてはいけない。
「完璧」を目指すことが大事なのだと思うのです。


2013年の総括はそんな感じですかね〜
2014年の目標は…まぁいつものことながら貪欲に、ですかね。
20代最後の年ですってよ、来年は。
トリッキーかつ愚直に突き進んでいきます。



さて2013年観劇ベスト3でも選んでしめますか。


・劇団どくんご「君の名は」
いやー、衝撃的でした、どくんご。
今まで観たシュールと評されるすべての舞台が霞むくらい。
シュールとかじゃない、衝撃的。

・「100万回生きたねこ」
たまらない原作が、自分の好きな演出家の手によって上演されるたまらなさ。
素敵でした、素直に。


上の2つがだんトツだったのでちょっと3つ目選ぶのが難しいな…
印象に残った舞台はデラシネラ「鑑賞者」、サンプル「永い遠足」、
リミニプロトコル「100%トーキョー」、岡田智代∞新宅一平「連絡船」とか?
なにげにF/T作品、観たの少ない割にあたりが良かった。
相馬さん退任でザワザワしていますが、http://togetter.com/li/604766
真相/深層はわからないからなんとも言えないけど、
いち表現者として自分なりの「問い」を続けていこうと思います。
…あ、いきなり話が飛びましたね。



年越しは今年身内で大流行したカタンをやりながら年越すみたいです。
今年も一年大変お世話になりました。
来年も大変お世話になるかと思いますが、それに報いるよう頑張ります。
来年もどうぞよろしくお願い致します。



皆様、良いお年を。

2013/12/14

BUTOH…

ご無沙汰しています。
何故ご無沙汰しているかって?
2週間前は自主練やる時間がなかったというのと、
先週はやったけど、内容が特にない練習だったので更新怠ったからです。
じゃあ今日は内容がある練習だったのか、と問われると謎ですが笑…

今日は開始前に稽古場の予約関係で若干アワアワしながらも
無事稽古開始。
冬場は床が冷たくなるので稽古場を選ばないと
なかなか床ゴロゴロとアップできないのが大変。
フローリングはやはり木の温もりがある、なんとなく。


前半はヌラヌラと動きながら身体を温める。
今週の月曜日にGRINDER-MANの伊豆さんが開催している
月曜稽古で久しぶりに落下練をしたのですが、
久しぶりにやったら全然出来ないというか、納得がいかなかったので
そのへんをたっぷりと。
どうやらこの落下練、もともとは舞踏?の練習法らしい。


ある程度暖まったところでソロのリサーチワーク。
なんとなくシーンのタイムを取ってみるが、動きの設計図というか、
構成がしっかりでききっていないのでなんとも…
やる内容や動きの仕組みは決まっているのだけどね。
振付の様にカッチリ決めたくはないが
ある程度の再現性というか、
即興にならないようなクオリティーは確保したい。
作るのは「ダンス」ではなくて、その他の要素も組合わさった
「ダンス作品」だということ。
再現性があるということはそれ相応の強度があるはずなのだ。
年明けちゃったらあっという間に本番だろうからボチボチ固めていかねば。


後半は即興を。
今日は月曜にやった落下練や昨日観た向雲太郎さんの「舞踏?」の
影響ってことでテーマは「舞踏」で。
舞踏は全くかじったことないし、作品も山海塾の「金柑少年」を観たっきり
観てないので馴染みがない。
でもたまに舞踏っぽいと言われることがあるのはなんでやろか?
結構スローな動きを使うからだろうかね?
舞踏ってそうゆうイメージありそうですよね、確かに。

http://www.youtube.com/watch?v=wDbq5g5UeCI

昨日のその「舞踏?」のアフタートークで川口隆夫さんが
手の形をそれっぽくすると他の身体の部位もつられてくる、
みたいな話をしていたのを試してやっていたら結構面白い。
足首とか足先、手首から先って身体の末端で独立している感じあるのだけど
そこを意識すると他の身体の部位もつられて変形する、確かに。
でもそれって無意識的に変な形になっちゃっているとも言える気がした。
意識していない点の、無意識状態の身体の在り方…難しい。

途中違うクオリティーも混ぜてみようとするも、
自分の得意なクオリティーに逃げた感じがするなぁ、観てみると。
逃げに見えないように、ていう課題。

色々な引き出しというか、カードをどのように切っていくか、なんだな。
即興的に構成していくってこと。
あれだ、大貧民みたいなもんだ、多分。


今日はそんな感じでした。
それにしても7分丈のパンツにタイツの組み合わせって
なんだかすごくダンサーっぽく見えるのが不思議。

2013/11/21

引き出しの中身を確かめる。お気に入りのヨレヨレのTシャツを、どう着こなすか。

ね、ね、ね、ね、眠い。
完全に睡眠不足でした、今週は。
今日は自主練の日。



寒くなってきたからか、寒くなると古傷が痛むという言葉を体験中。
でも傷口が痛む、ていうより筋肉がピキピキいう感じなんですよね。
と、ちょっとビビりながらも前半は丁寧にウォームアップ。
暖房なんかも入れちゃったりして、
弛ませるところから、しっかりと筋肉を伸ばしていく。



前半はソロのリサーチワーク。
全体の構成は決まっているのだけど、細かい振りなどが決まっていないので。
個人的に創作をする時に「言葉」から始まりがちで、
そうするとコンセプチュアルというか、テーマ偏重というか、
具体的になりすぎると言うか、アタマでっかちになりがち。
それをどのように身体に落とし込んで、面白いモノにするか。
身体に落とし込むことで、抽象化を図る。

先日「ダンスがみたい」という言葉を考えてみた。
それは躍動する身体としての「ダンス」がみたいのか、
それとも「ダンス」作品が見たいのか、
で「ダンス」の捉え方って違うな、と思ってみたり。
作品を構成する要素としての、手段としての「ダンス」なのか
純粋ともいえるような、目的としての「ダンス」なのか。
観客はどちらが見たいのかは人それぞれだろうから、いい塩梅が必要。



多少話は脱線しまして…
後半は即興を。今日は5分くらい1セットで。
最近即興のコトを色々試しながら考えている中で、
自分の持っている引き出しの中身を確かめるためにやっていることに
気がつきました。いや、元から多分そのつもりだったのだけど…
より具体的に目的が言語化できたというか。

自分がどんな引き出しを持っているか、意外と知らないモノです。
しかもとくに「型」を持っているワケではないのでなおさら。
それを知る為にやっているんだなー、と。

即興は引き出しの中身をどれだけ引っ張りだせるか、な気がしています。
引き出しっていうのはボキャブラリーであり、動く為のルール。
瞬発的にそれらを出したり、提示すること、を即興と考えてみました。
なので1本目は動きのルールを決めてみて即興。

5分とかになると直接貼れないのか?
しょうがないのでYouTube経由で。


とかいいつつも、
結局ルールを遵守して動いていたのは最初1分弱くらいまでっていう笑
あかんね、ルールが変わっていくのはいいのだけど常に意識しないと。



で、2本目はじゃあ1本目とは違う感じで、ていうので。

http://www.youtube.com/watch?v=PxC8j00lmhk&feature=youtu.be

あー、なんだろね、この既視感のある感じ笑
引き出しの中にある、お気に入りのTシャツ、コレ。
個人的には着古されてヨレヨレになっちゃっている感じ。
しかもジャンプしようとしている時のアワアワ感ったらないね笑

でも動画に撮ってみて気がついたのは
立ち状態での頭の高さの変化が乏しい、ということ。
床とかはあるのだけど、頭の高さの変化の選択肢がほぼ床のみ。
つまり「立っている状態で頭の高さを変えて動く」というルールを足せそう。

今日やって見て気がついたのだけど、こうやって動画に即興を撮って
それを分析すると新たな動きの為のルールが発見できる。
コレは良い発見です。
おそらくまだ自分の引き出しの中にない動きのルール。

ヨレヨレのTシャツみたいな着古された既視感バリバリのモノでも
新たなルールを加えることでまた違う見え方がしてくるのでは?ということ。

いうなれば、おしゃれの哲学!

ん?違うか?
でもそうなんじゃないでしょうか?
ちょっと次回はそのへんを試してみれたら。



といった具合に自分にとっての新しい動きのルール、ボキャブラリー、引き出しを
見つけられるのは楽しいです。

ていうか、そろそろちゃんとしっかり衣替えしないとな。
クローゼットの中も外も混沌としています。

2013/11/16

郊外への憧憬。

すごいね、今週3回目の更新です。
ブログ更新しようとすると長文になるからちょっと億劫なんですね。

今日はまさに久々に完全なるオフ、て感じでした。
最近はオフの定義がよくわからなくなっていて、
バイト行ってない日は夜に稽古があったとしてもオフの感覚です。
そんな中でも今日は完全なるオフ、一日何も予定無し。

油断していると一日寝て過ごしてしまうので、オフだけど目覚ましをかけ
9時には起床。
だらだら〜っとTwitterなどを見ていると…


「首都圏外郭放水路」の特別見学会が今週末に開催

という記事を発見。「ナ、ナンダッテ〜!?」という感じで
一気にテンションが上がり、そのまま春日部へ。



電車とかバスに揺られること2時間弱、到着。



カビ臭さというか、湿度の籠ったコンクリートの臭いというか、
スキーレンタルのお店の臭いというか…
独特な臭いの立ちこめる約100段の階段を下りていくと


いいね、この螺旋階段見上げる感じ。
上からも撮りたかったけど、監視員のおじさんが
「立ち止まって撮影しないでくださーい」と釘をさすので断念。
足下の明滅する水銀灯?もなんだかグッドな演出。



そして…


ドーン、と。

窮屈な感じのある階段室から一気に広い空間に出る瞬間は
思わずニヤついちゃいました笑
シャトルバスに揺られているときや地上では
一般開放日だけあって混んでるなー、と思っていたのですが
地下の巨大空間に降りてみたら広々。
人がいなかったら本当に神秘的な、地下巨大神殿な感じ。














近くで見れなかったけど、この立坑もいい感じ。
うーーん、たまらんね!
こうゆうとこでパフォーマンスとかやりたいです。

地上に還ってきますと、施設付随のグラウンドでお祭りが。
ちょっと遅めの昼食を屋台ですます。
グラウンドではよさこいのパフォーマンス。



日本人にはこうゆう「祭り」をベースにした身体性っていうのは
あるはずなんだよな、とか。
あと「ジャンプ」と「跳ねる」はニュアンスが違う感じがする。
「跳ねる」は日本的な感じというか、「地上的」なイメージ。
床へエネルギーを伝えて、跳ぶ感じ。
「ジャンプ」は西洋的というか、「天上的」なイメージ。
床へのエネルギーというより、ひたすら高く!なイメージ。
そんなことをハネトっぽい動きを見ていて思いました。
あとは中学生くらいになると学校で見る姿とは違うほんのりコスプレ感に
ドキッとするんやろなーとかどーでもいいことを思いながら見ていました。
OBの話を円になって休めの姿勢で聞いている姿を見たり、
ブルーシートを敷いてやんややんやしている姿などを見ていて
地元のお祭りの、小さな社会が垣間見える感じとかも面白かったです。

こういったローカルな感じのお祭りを見ていると
「郊外」っていいなー、と思う。
地域社会があって、そのなかでの上下関係や憧れ、みたいな物語が見えて。
よさこいを踊る地元のお兄さんに憧れて、男の子がよさこいを始める、とか
大漁旗を振るう地元のお兄さんの二の腕によって何かが目覚める、とか
お祭りで踊る、学校とは違う一面を見せる男子にドキッとする女子、とか。
最後のは完全に「鈴木先生」ですけども笑

東京生まれ東京育ちの自分にとってはあまり馴染みのない感じ。
そもそもそんな物語があるのか知らんけども、勝手な妄想。
でも故郷がある、ていうのはそうゆう物語を孕んでいたりして憧れますよ。
絶対に手に入れられないものですからね、自分には。



そんな春日部から電車一本で地元まで帰れてしまうのがなんだか不思議。
馴染みの無い土地から出る電車の行き先表示が
いつも使っている電車の行き先表示と同じというのはなんだか不思議。


途中渋谷で鞄と眼鏡を新調。
眼鏡は度が強いので2週間ほどかかるらしい。
ボロになった鞄は、7年近くの付き合いだったけども、さようなら。


そんなこんなで、久々に充実したオフ、でした。
それにしても郊外と椎名林檎の「無罪モラトリアム」の相性は最高だな、と
帰りに聴いていながら思いました。
このくらいの季節に、郊外のバス停とか駅で
ベースorギターを背負った女子高生がヘッドホンで聴いているイメージがある、
「無罪モラトリアム」というアルバムは。

2013/11/14

コンタクトとフロアワークの共通点。

寒いですね、いや本当に寒いですね。
めっきり寒くなったのに街路樹のイチョウは色づかないなーと思っています。


今日は昨日の夕方から朝まで働いて帰宅し、
寝て起きたら夕方だったので何ともオフを無駄にしたなー、と
がっかりしながらも自主練へ。

もうダラダラだモードだったのですが
前回の経験からアップすればそれなりに心身のコンディション上がるだろうと
思っていたのですが、今日はそうでもなかったですね。
心身ともにダラ〜んとした感じだったので、いつものをアップをしたあとは
ユカダイスキーということでフロアワークをウダウダと。


持論としてフロアワークは床とのコンタクトと考えると、
コンタクトインプロとの共通項があるのではないか、と思っています。
なのでちょっと今日はそのへんを試してみました。
床とコンタクトするように接点を移動していく、みたいな。
意識の仕方としては面白かったけど、
そこまで面白い動きは生まれなかったですね。
それよりもいつものように身体の内側のコネクションを意識して
即興的にフロアを動いた方がダイナミックな動きになる感じ。

ただやはりフロアの動きは既視感を生みやすいというか、
自分で動いていても「あ〜、さっきもこの動きやったなぁ〜」というのが多々。

もうちょっとコンタクトとフロアワークの関連性みたいなものは要研究で。


2013/11/13

フレーム。

おお、珍しくブログが頻繁に更新できているではないですか!
つまりは最近暇なんですね。
というよりも最近生活のペース、リズムがいい感じ。
大学卒業して5年くらい経つけど、やっといいリズムが刻めるようになった感じ。
でも多分、昔ほど無理して徹夜の現場とか入れなくなったのもあるんだな笑


今日はF/T13のプログラム、シアタースタジオ・インドネシアの公演
「オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー」を観てきました。
池袋の東京芸術劇場前、西口公園に竹で組まれた舞台で行われる作品。
竹で組まれた舞台は楽器にもなるし、装置がぶつかり合う衝撃を伝えるし、
なんともアトラクション的な要素を含んだものでした。
街頭で野外公演に対抗するように張り上げられる客引きの声などが
いい具合に作品にもマッチしていて面白かったのですが
なんとなく個人的にはピンとこなかった。

民俗的な儀式とか祭事と芸術は同じ線上にあるようなものなんでしょうが、
そのへんの違い、みたいなことかとなんとなく感じました。
「作品」というフレームに入れれば儀式も作品化する、みたいな。
フレームに入れれば「作品」になる感じ。

以前父が道端でペシャンコになった空き缶を拾ってきて、
額縁に入れて飾っていたのだが、確かに「作品」らしくみえるのだ。

作品か儀式か、ていうことが問題なのではなくて
その「フレーム」の中にいれるとそう見えてくるというのが面白いなぁと
思いました。
同じひとつのものでも違う「フレーム」に入れたら、違う様に見えてくる、
違う様に評価されていく、ということ。
新しさはその「フレーム」の中だけでのことだったりするのも、ある。

そんなことを考えてみれば、やれることは沢山あるのかもしれないな、
と思いました。


そんなこんなを考えていたら、大学の卒業制作の頃のことを思い出しました。
ウチの母校では創作民俗舞踊というものがあります。
民俗的な踊りをリサーチし、
それをベースに舞台舞踊作品を創作する、というものなのですが
民俗的な、儀式や生活に付随する踊りを
舞台上で行われる舞踊作品にする、というのと
儀式的な要素を作品に取り込む、というのに何かシンパシーを感じたんですね。

「作品」にするにはなにが必要なのか、てことなのかもしれない。
それは例えばフォーメーションだったり、照明だったり。
つまり見せ方、てコトなんではないかと思いました。

「フレーム」とは「見せ方」でもあり、「見方」でもある。
フムフム、なるほどねー
話が二転三転するかと思ったら、意外と戻ってきました。
いい具合にまとまったので、おしまい。


2013/11/06

型と即興。

うん、ちゃんと定期的に書くことを決めておくと更新できるものですね。
今日も独りで自主練を。


稽古場についたものの、妙な狭さというか部屋の白さというか、床硬いし
なんだか違和感を覚える稽古場でモチベーションがなかなか上がらず。
独りで稽古する時はモチベーション上げが難しく、
稽古場の選び方も大事だよなー
と、半分もう今日は無理な雰囲気を醸し出しながらウダウダ始める。

そんなウダウダとウォーミングアップをしながら思ったのは
こうゆうときに「型」があるというのが便利なのだな、と思う。
モチベーションが上がらなくても、ある一連のものを経由することで
身体のコンディションとともにモチベーションも上がってくるような。
例えばバレエのバーレッスン、とか。

以前にTwitterでも呟いたことなのだが、
身体というのは日々の積み重ねの賜物、結果であるということ。
定期的に同じクラスに通ったらそこの身体が身に身に染み付くだろう、と。
だから例えばカンパニーとしてオリジナリティーていうのは
どんなクラス、メソッドが使われているのか、っていうことなんじゃないか、とね。

「型」として何度も何度も身体を通したものはやはり身に滲みていて、
「型」を通すことで身体がリセットすることもあるのではないだろうか。
個人にとってのベーシックな身体とか身体使いが「型」を通してよみがえる、
「型」を通してそこにリセットされる、みたいな考え。
小野寺さんとご一緒させて頂いた時にした「型」を身につけるといい、
みたいな話はこうゆうところにも繫がってくるんでしょうね。

「型」を持っていない自分にとっての「型」≒ベーシックな身体って
なんだろうなー、と思いながら
先日8月の公演の稽古の時にアップでいつもやっていた動きを
やりながら分析してみる。

ひとつ見えてきたのは背骨をベースにしたような身体の考え方があるっぽい。
というか骨の連動性とかコネクション、みたいな話。
なるほどね、やはり長いことご一緒している方々の影響は色濃いのだな、と笑

あと胸・肩周りを意外とグニャグニャさせる動きがベースにあるな、
という発見。
アイソレーション的というか外力的な動きというか
かなりざっくり言うと人形振り的とか、
糸とかで引っ張られるイメージの動き。
多分大学在学中に初めて作った作品の監修でマイムの先生が入ったのとか
その作品の時にトレーニングの参考としてhttp://amzn.to/HHfFPh
使っていたからとかが関係してるんだろうな。
フムフム、こうやって分析すると面白いな笑

でもあれなんですよ、胸・肩周りがグニャグニャするっていうのは
肩周りの柔軟性に富むっていうのがある一方で
胸の安定性が弱い、っていう弱点もある訳ですよ、コレ。
モノを使って動いたりする時に意外とこの胸の安定性のなさっていうのは
表現としてネックになるらしく、
だから意識的にそうゆう弱点はカバーしないとね、てこと。



そんなこんなでウォームアップしていたら意外と楽しくなってきて
そこに階下から邦楽を奏で唄う楽しげな様子が。
よし、じゃあ今日はコレに合わせて即興してみますかってことで。

で、その様子を動画に納めて分析してみたり


フームフムフム
胸・肩周りグニャグニャしてますね笑
とりあえず思ったのは…

・手の形って大事
・ちょっとした瞬間の肩のラインの違和感
・ジャンプ全くしないな、この人
・動きの既視感というよりも静止とかスピードとのメリハリ
・正面性って知ってる?キミ

てとこですかね。
手の形っていうのはずいぶん前にGRINDER-MANの稽古の時に言われたなぁ…
つねに卵を握った形をしている、みたいな笑
でも手の形って結構重要で、全然質感が変わってくるんですよね。

スピードのメリハリに関してはやはり大事だな、と。
即興をやる時にしても振りを作る時にしてもリズム感というか、
時間の流れ方みたいなのはもともと結構意識しているとはいえ、
もっとやってもいいんだ、ということなんだな。
ベタ過ぎるだろ、この展開は…ていう時間の変化も
やはりベタはベタというか王道というか、ある種安定してハッとさせられる。
無意識的にそのベタを避けがちなんだろうけど、
そこには絶対的では無いにせよ、なんとなくの正解・不正解がある。
だから「間が悪い」と思ったりするわけです。
あと「とまる」とか「待つ」が舞台上で出来る人は強い、
っていうのが持論であるのですが、再実感。

ジャンプしないなのは…ジャンプのボキャブラリーが少ないのだね、この人笑
次やる時はちょっと意識してみようかと思います。

ちょっとした瞬間の肩のラインっていうのは…なんだろう?
漫然と動いちゃっているということなのだろうか?意識が通ってない感じ。
これは全くのテーマ無しで動いているわけですけども、
即興とはいえなにかテーマは必要というか、拠り所があった方が
観ていても面白いし、強さがあるんだろうな。
それはなにも身体のインテンションに限らずとも
音楽とかでもいいだろうし。


話はかなりズレますが、
先日仮面をつけて即興をする会というのに参加させて頂いた時に
役者とダンサーの即興って違うんだな〜と思いました。
ダンサーはその場でそのまま身体を動かしていくのに対して
役者の方はキャラクターとか物語をその場で設定して、それを表現する、
みたいな違いを感じました。
その時は多分持っている表現言語の違いがそこに出ているんだなぁ、とか
「即興」という言葉の厳密さの違いを面白く思っていたのですが
よくよく考えたらダンサーも動きのルールを決めて動いた方が
強度はあるんだよな、と今日思いました。
というかもともとそれは知っていたんだけど、思い出した感じです。

だから本当に即興と言われた場合でも、どのようにその場で「ルール」を
提示していくか、ノッていくか、逸れていくか…
それが即興を面白くするのだと思います。
よくよく考えればコンタクト・インプロヴィゼーションも
「コンタクトしている」というルール(≒縛り)があるってことなんだよね。


はい、話は戻りまして…
いや、多分とくに戻りはしないのだろうけども。
なんだかいろいろ発見とか再実感がある充実した稽古でした。
最初は自分で動画撮影して分析するだけじゃなくて、
それをblogに載っけちゃうとか正直どうなん?と思ったけど
意外とこうやって記録しておくと後々読み返した時に面白かったりするのは
実感としてあるので、今後もやろうと思います。
でもあれだ、web上にアップしても恥ずかしくないモノにしないとアカンですね。

2013/11/01

動きの近似値をとる為の「振付」

でた、ブログ放置。
およそ2ヶ月も放置してしまいました。
まぁさしてブログに書くようなことが無かったと言えば無かったのですが、
北海道に行ったりしてました。
…絶好のブログのネタなのにね、北海道旅行とか笑
今度暇な時にまとめます、多分。


最近、といっても今日でまだ2回目なのですが自主練をしています。
目的としては来年の1月にやるソロ作品のためのリサーチと
振りを作る能力の向上、即興ではなく振付で動くということを考えるためです。
というのも、どうやら自分は即興で動く方が良い動きをするらしく、
それもなんだか癪な話だなぁと思いまして。


そんなこんなで放置気味だった訳ですが、
その放置予防の為にも今個人でやっている自主練習のことを備忘録的に
まとめておこうかなー、と。
練習中に思ったことやら、考察などをちゃんと文章にすることで
また見えてくるものがあるのかもしれないし。


今日は「振付」について考えながら稽古を。
1月にやろうと思っている作品はなにか形をとっていく動きとか
シームレスな動きのコンビネーションというよりも、
あるイメージとかインスピレーション、
身体の仕組みをベースに作ろうと思っていて
でもそれが「即興」になりたくはないなぁと思っています。

となるとどこからが「振付」で「即興」なのか、みたいな話になってきて
「別にそんな定義付けとかどーでもよくね?」とも思うけれども。


話は戻りまして…
とりあえず今日やってみたのは動詞?インテンション?のみを決めておく。
それも「振付」なんじゃない?てことで。

(例)
右の掌の匂いを嗅ぐ

多分動き的には即興的なものになるから動きの完全な再現性は無い。
でも動きとしてのクオリティーの近似値はとれる、はず。
「振付」とは動きの再現性を作ることなのか、ていう疑問も出てきて面白い。
フォーメーションとか群舞とかになってくると
再現させるため、合わせるための「振付」が必要になってくるのだろうけど
もうちょっとざっくりした「振付」の考え方があってもいいのではないかな、てこと。

そんなこんなを考えていたらカウントで踊るのか、カウントと踊るのか、
音楽で踊るのか、音楽と踊るのか…
言葉のあやかもしれないけど考え方としては大事なのかな、と思ったのです。
カウントで踊れていても、他の人とは踊れていない、ということはありえる。
群舞として何を重視するかってことなのかもしれないし
最終目的が何なのかってこと。
みんなで合わせることが目的で、その方法論としてカウントを使うのか
カウントに合わせて踊ることが最終目的なのか。
そういったことも頭に浮かんできて、やはり文章化するというのは面白い。


今日思ったのは「振付」というものに何を求めるか、
てことなんでしょうね、多分。
動きの再現性なのか、意識のフローなのか。
それはきっと振付家によって異なることだろうし、好みもある。

なんとなく今日腑に落ちた考え方としては
『動きの近似値をとる為の「振付」』という考え方。

2013/08/16

お盆。

O Born.
お盆ですね。


今日は朝から父と2人な日でした。

墓参りに2人で行き、2人で墓を掃除。
帰りの車では日本は島国的な根暗さが強みなんだから
グローバルな人材を育てるっていうのは英語教育のことじゃない、
みたいな話をしたり。

高速道路走りながら、日本全国道路通ってるし
ネット回線上で仕事のやりとりできるんだから
コレからは絶対地方というか「地域」がアツい、みたいな話も。

現に舞台業界は地方(わかりやすいように便宜上地方という言葉を使います)が
盛り上がってきていると思う。
そうゆう流れを見ていると、東京生まれ東京育ちの自分て不利なのかもなー、
と思ったり、東京生まれの強みを上手く活かしていきたいものです。


夜も2人で夕食を。
こないだの自分の舞台の話から色々クリエイティブとは何か、みたいな話まで。
観客が評価する評価というのは平面的なことが多く、
(例えばわかりやすかったとかわかりにくかった、とか)
そういった平面よりも平面の重なり、多層的な評価で見た時になにが見えるのか。
なんとなくではなく、全ての演出、動きに意図を持たせられるか。
明確であるのか、背骨があるのか、ということ。
言いたいことはとても良くわかったのだが、上手くまとめられんなぁ…

でも思ったことはそういった明確さ、よりも
内面からの衝動とか気持ちの強さ、ダンスの野性味というヤツだろうか?
いわゆるもっと説明のしようがないエネルギーみたいなものがダンスでは
評価されることがよくあるな、ということ。
そうゆうエネルギーの出し入れみたいなことも計算されて、
制御されているのだとしたら話はまた別なのだろうけども。

構成演出の素晴らしさと、出る人間に委ねられるエネルギー的な素晴らしさ。

舞台には両方あるから難しいと思ったのです。
そんなことを話していて、ちょっと印象に残ったのでメモ的に。


そして墓参りをしながら、次にこのお墓に入るのは父なんだろうなー、と
ちょっと感慨深くなりながら、
この人が生きている間にどんな姿を見せてあげることが出来るのだろうね、
と思ったり。

頑張らないといけませんね、いろいろと。


精一杯生きることが死者への最大の弔い、そんなことを思ったお盆でした。


2013/08/11

お幸せに。

大人少年「手帳の空白」無事終了いたしました。
関係してくださった皆様、2ヶ月弱の稽古を共にした出演者、
いろいろテンパっていた主宰を暖かく支えて頂いたスタッフ、
そしてご来場頂いた皆様に感謝多謝。

本当怪我もなく、無事終えることが出来て良かったです。

作品作りながらも、本番中もいろいろ思うことあり、それを忘れぬように
諸々ここに記しておこうと思います。



・「オリジナリティー」ということ
今回非常に考えさせられたことのひとつは「オリジナリティー」ということ。
正直作品を見て頂いた方はわかるかと思うのですが、
小野寺修二さんの影響が色濃く出ているかと思います。
自分でもそう思います笑

作品を作りながらも何度も考えたことではあります、
劣化コピーになるのではないか、と。
ただ今回の作品での挑戦のひとつとして小野寺さんの演出スタイルを使う、
しかしながら小野寺さんの作品とは違う自分らしさをだす、ということ。
結果はどうだったのか、と言われると…何とも言えません。
知っている方の感想としては多かったですね、似ている、というのは。
ただ逆に小野寺さんを知らない方の感想としては新しい、とも。
フーム…なんとも複雑。

頂いた意見で面白かったのはその人の使う「スタイル」と
その人の作品に低通する「テーマ」とのつながりが強ければ強いほど、
その「スタイル」を使うことが「テーマ」的にも似てしまうことになる、
というもの。
逆に創作として低通する「テーマ」みたいなものがあれば
「スタイル」はそのうちついてくるのではないか、ということ。

スタイルをマネながらも60分作品を作ることに挑戦してみることで
なんとなく自分のやりたいことはこの方向性かな?とか
興味をもっているものというのが少し見えたので
そこを上手く伸ばせていけたらオリジナリティーに
なるのかなぁとは思いました。

1発目の作品でいきなりそこまで成熟したもの作れるワケないですしね。

しかしまぁ難しいですね、「オリジナリティー」って。
ある動きをある人がアイコン的に上手く使えば
それはその人の「オリジナル」の様に思えてしまい、
後々それを使うことは「コピー」のように思えてしまう。

作る人はみんなそんなことと向き合っているんでしょうね。


・稽古に関して
なにぶん60分の作品作るのなんて初めてですし、
そもそも人を使って作品作るのなんて大学在学中以来ですし。

今まで参加させてただいた作品は
ほぼ毎日フルタイムで稽古するところもあれば、
週3回とかで稽古するところも。
多くの時間を共有し、積み重ねることのメリットも知っているし、
あまり稽古時間に縛られすぎないメリットも知っている。

正直舞台だけで食っていける人なんて極わずかで、
みんな何かしらの仕事と両立してやっているワケです。
舞台を続けていくためには、生活も続けていかなくてはいけない。
なのであまり負担になりすぎないように稽古を組み、
振りなどは作ってもらうことはあっても
自分が主導でバシバシ作っていくという形にしました。

しかしやはり時間がない中でやっていこうとなると
どうしてもトップダウン形式になってしまいがちですね。
本当はもっと多くの時間を使っていろいろ試しながら
最良のものを選びとれたらいいんですけど、それはなかなか難しい。
本番を終えてみての実感としては
もうちょっと稽古時間とれたら良かったなぁということ。

生活のすべてを作品に捧げることができて、生活も侭なるというのは
最大の理想ですが、今の日本じゃなかなかそうも言ってられない。
かといって作品にすべてを捧げていないからその作品はダメだ、
というのも酷な話。

恋愛とか結婚とか出産とか余暇とか、
そういった「幸せ」と自分の好きなことをやるという「幸せ」
どちらも両立したいものです。
バランスの問題なのか、妥協する度合いの問題なのか。
でも一度きりの人生ですし、どちらも諦めずに得ることを
貪欲に挑戦していきたいです。絶対相乗効果もあるはずですし。
そしてそれに挑戦しようとしている人に優しくありたいと思います。
「今」はダメでも「いつか」「そのうち」「近いうち」に得たいものは得る、
「今」ダメなら「今」頑張る。

このことは先日の安藤美姫選手の妊娠出産発覚事変(勝手に命名)のときの
報道とかの在り方をみていても思ったことなのですよね。
その業界にいる人、またはそのまわりにいる人、どちらも意識として
変わることが必要なことのひとつなんじゃないかと思います。

様々な道を許容する、ということが。


・観客について
今回メンバーがいろいろな出自だったり、面白いメンバーを集められたので
観客の層も幅広い感じ。
もちろん出演者4名中3名が玉川出身なので玉川率は高かったにせよ、
いろいろな客層に観てもらえたのは良かったと思います。
いろいろな意見も頂けるし。

以前から思っていたことではあるのですが、観客は一人一人違うということ。
だから全ての観客を満足させることは難しいということ。
やろうと思えば出来るのでしょうが、
例えばそれは同じ業界の、狭い世界の中での観客を集めて、
その方達好みの作品を作る、みたいなことだと思う。
それに近いことがコンペティションだったり、コンテストなんじゃないかな、
と最近は思う。もちろん賞を取ることでハクがつくことはありますし、
現に自分も足掛かりとしてそうゆうものに応募したりもします。
それが悪い、ということではないのだけども
そればかりを続けていては結局先細りなんだよな、ということ。

開演30分前にくる人もいれば、開演5分前にくる人もいるし、
チケットを予約受付開始時間直後に買う人もいれば、
当日券でフラッと観に来る人もいる。
そんないろいろな観客たちを全て満足させるのは難しく、
またその人たちの意見を全て聞いているわけにもいかない。
頂けるご意見はありがたいが、ある程度の取捨選択はしなくてはいけない。

わかりやすい、物語性があって観やすかったという方もいれば
わかりやす過ぎるという方もいる。
あちらを立てれば、こちらが立たず、難しいものです。
でも基本的には色々な人が観ても楽しめる、愉しめる、
そういうものを目指したい、とは思っています。


・頑張らなくちゃいけない、まだまだ弱音は言ってられない
一昔前は携帯電話も、SNSも、チケット予約管理サービスも無い中で
公演して集客していたと思うと、先人たちはすごいなぁと思うわけです。
その立場から言えば恵まれた宣伝活動環境や諸々揃っている今。
頑張らないわけにはいかないよなぁ、と思う。
頑張りすぎない程度に、頑張ります。


・「幸せ」について
前回のブログでも触れたことですが、
本当今回は「幸せ」ということについていろいろ考えました。
まぁどんなことを思っているかは前回のブログを参照してください。
以前仕事で合同企業説明会の記録撮影をしていたときに出会った
印象的な言葉があります。

「企業は誰の幸せのためにあるのか?社員とその家族のためです。」

はっきりは覚えていないけども、そんな内容の言葉。
舞台も同様で、観てくれる方のためにやるというのはもう大前提で
やっている本人たちが幸せでなくてはいけない、そう思います。
だって正直こんな効率の悪いことやってて、楽しくも幸せでもなかったら
正直しんどすぎますよ。

今回参加して頂いた出演者、スタッフの皆様が参加していて
楽しかったり、幸せだったのであれば、
それだけでもう俺は充分です。
ただ作品が作れただけでも幸せですし、そのうえ関係者が幸せなのであれば
言うことはないです。
「キミの意志で決めたことなら、それは幸せですよ。」
「でもあなたはそれで納得できるの?」
「…納得させるよ、キミの幸せのためだ」
「ひとの意志ばかりを尊重して、やさしいだけじゃダメなこともあるよ」
さてさて、色々ありましてなんだかポッカリ穴があいてしまった気分。
この穴を埋めるために旅に行ってきます。
旅行ではなくて、旅。
前旅にでたのは2009年かな?
卒業直後で色々あって「なんか旅出てぇ!」て感覚だったのを覚えています。
今回もそんな感じです。
旅にでて、自分を無くして、穴を埋めて、満たしてきます。
旅で精神デトックス。

だから8月は働いてちょいとお金貯めるよー。
夏はまだまだ、これからです。

2013/08/03

「幸せ」について本気出して考えてみたら。

でました、安定のブログ放置具合。
もう気がついたら2013年もとっくに折り返して、夏になってしまいました。
HPの方ではお知らせしましたが、
自身のプロジェクトユニット大人少年を立ち上げ、
「手帳の空白」という作品を上演します。
ええ、もう明後日小屋入りです笑
正直平時にブログアップしないでなんでこんな時にブログアップしているのか
よくわかりませんが、気分転換も兼ねて。


今作っている作品の内容も相まってか、
最近「幸せ」とはなんだろうな、とよく考えます。
もちろん社会的に、普遍的な「幸せ」というものはあるかと思います。
でもあの人にとっての「幸せ」が自分にとっての「幸せ」とは限らないし、
「幸せ」というのは各個人で相対的に違うものなんじゃないか、と最近思う。
ある人が「幸せ」であることが自分にとっての「幸せ」であって
そのある人が「幸せ」になるために自分が損を被ることとなっても
それは「幸せ」なのかもしれない。
お金があれば「幸せ」なのかもしれないし、
でも未曾有のカタストロフがきたらそんなものは一気にひっくり返るし。

なにを選択するのか、ということ。
そしてそれは自分の意志であるということ。
自分の意思で決めているのであれば、きっとそれは「不幸せ」ではないはず。
好き好んで自分から「不幸せ」になろうという人は、きっといない。
もちろん誰かのことを考えると、自分の意思が縛られることもある。 
でもその誰かのことを考えることが自分にとっての「幸せ」なら
それはそれで「幸せ」なのかもしれない。
一種類の「幸せ」だけじゃなくていろんな「幸せ」に寛容になれたら
息苦しくなくてみんな「幸せ」なのではないでしょうかね。

でも子どもが生まれる、って言うのは多分普遍的で全生物共通の
「幸せ」なのだろうな、と最近出産した方のFBページなどを見ていて思う。
だからその普遍的な「幸せ」は社会が、国が
最低限保証すべきなんじゃないかなーと思う。
…はい、突然政治的な話がカットイン笑

いろいろな「幸せ」になろうとする思いと「幸せ」になって欲しい思いが
交錯し合っていて複雑なもんだなー、と思うわけです。
考えだしたらちょっと塞ぎ込みました笑

そんなこんなですが、優しい作品に仕上がるといいなぁと思いながら
最後の詰め、頑張ります。
でも選曲とか構成は結構ハードな作りなんだよね笑


公演詳細↓

大人少年 公演「手帳の空白」

自由あるいは安定
未定あるいは反復
日常あるいは非日常

優柔不断
行ったり来たり

ないものねだりのデットヒート

【日時】
2013年8月6日(火) 20:00 開演
        
7日(水) 14:00 開演/20:00 開演
        8日(木) 14:00 開演


構成・演出:三橋俊平
出演:金井迪大    [劇団S.W.A.T!]
   下山マリナ[世田谷シルク]
   渡邊絵理
   三橋俊平
照明:関口大和 [(株)ASG]
音響:佐久間修一
制作:久我綾子
製作:大人少年

【料金】
前売/当日 3,000円(1Drink込/全席自由)

【会場】
Performing Gallery &Cafe 絵空箱

有楽町線「江戸川橋」駅 徒歩2分/東西線「神楽坂」駅 徒歩9分
[HP]http://esorabako.com/index.html

【チケット予約】
2013年6月17日(月)10時 予約受付開始
CoRich 舞台芸術!
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_main_id=35913



ご連絡頂ければチケットおとりします。
TwtterのメンションなりDM、Facebook経由でも大丈夫です。



さて、まだラストシーンが仕上がってないからそれの構成せねば…
本番まであと3日、やれることはまだある、最後まで全力で。







2013/05/16

嘘とリアルと本当。

ご無沙汰しています。
入院初日にアップして以来、放置でした。
負傷から早3ヶ月、手術からはや2ヶ月、
明日の検診次第でジョギングの許可が出るかな〜という具合です。
膝自体は手術痕の痛み(?)はあるものの、
運動性能自体に支障は無さそうな雰囲気。
まだ跳躍とか試していないので何とも言えませんが
跳躍力落ちまくってたらやだなぁ…


今日帰りのバスに乗りながらふと

役者に合わせる「当て書き」という脚本の書き方があるのなら
ダンサーに合わせて振付けを作る「当て振り」という考え方もあるのでは?

と思い至る。
ちなみに当て振りhttp://ja.wikipedia.org/wiki/当て振りというものは実際ある。
ダンスでその人らしい動きが欲しい場合、
振り作りはその人に投げちゃうパターンが多い気がするのですが、
そんな中で他人がその人っぽい動きを「当て振る」には
動きの分析やらなんやらってことになるんかなー、とボーッと考える。
〜っぽい動きというのはよく見かけるし、そう感じることもあるから
不可能なことではないのだろうな、と思う。

そもそもダンスとか、身体というその人自身の器を使う時点で
その人が踊る以上その人の踊りになってしまう(≒当て振り)になってしまう、
てことなんじゃなかろうかというとりあえずの結論。


あと「当て書き」の定義はイマイチよくわかっていないのだけど、
(参考 http://ja.wikipedia.org/wiki/三谷幸喜#.E4.BD.9C.E5.93.81.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4)
「当て書き」の狙いとしてはよりリアリティーを持たせる、
ってことなのかな、と考える。

それらを踏まえて思ったのは…
ここ半年くらいことある毎に脳裏をよぎる、大学時代の教授の言葉で
「演劇をやっていることで『嘘つき』呼ばわりされた」
というのがある。
なんだかとても印象に残っていて、この言葉について考えてしまっています。
演技はどうしても嘘、というか虚構がつきまとうのはなんとなくわかる。
若い役者が老人を演じるのは違和感≒嘘に思う、ということとか。

じゃあ例えばAさんが「Aさん」を演じる、ということと
Aさんが踊る、ということがあった場合。
どちらがより「本当」のことなのだろう、と考える。
なんか色々脱線し始めちゃっているので多分結論は出ないのですが、
そのへんに「演技」とか「ダンス」のうま味というか、
「なにか」がありそうな感じがするなー、と思ったのでメモ的に。

演技することが嘘だといわれること、ダンスの方がなんか真実味がある感じ、
でも嘘っぽいダンスもあるよな、という感触。
身体という同じその人自身という器を使うという点は同じはずなのに、
生まれるこの差はなんだろう。
最近この「嘘」とか「本当」というものと舞台の関わり方に
興味がある。

舞台で観たいのは「本当」のことなのか?
「本当」のことなんて日常生活の中でいくらでも観られるのに。
でも舞台で「嘘」を見せられるのも何か違和感がある。

たぶん舞台で観たいのは「リアル」ということなのかな、と思う。
個人的に「リアル」という言葉は前提として虚構性がある。
若い役者が老人を演じるのは「嘘」だけども「リアル」にはなり得る。

ダンスの場合、力学的に動きを繋げれば「本当」になりやすいから
なんとなく「本当」な感じがするんだろうな。
逆に演技的な要素とか感情的な要素を入れようとすると
難しいと言うか、「嘘」っぽくなりやすいというか…
だからそこから動きへ逃げがちなのかもな、と思う。
というか、これはsynapseの作品に参加して思ったこと。
そのへんを考えればダンスにやれることはまだまだある。
新しいテクニックを導入するだけじゃなくてね。


なんだかまとまらないまま書き始めて、結局まとまらなかったのですが
無理矢理まとめると「嘘」とか「リアル」とか「本当」ていうことを
大事にしていきたいなー、と思ったのでした。

2013/03/11

被災という体験、風化という体験。

2013年3月11日。
あと1時間ほどで東日本大震災からちょうど2年。



思うところは、本当に「風化」していくのだな、ということ。
直接的に被災もしていないし、
結構揺れた東京にさえ当日いなかったわけですが
それでも感じる「風化」していくということ。
いわゆる揺れだとか、津波だとか、
直接的な体験をしていないわけですが、
「風化」という震災の体験をしている気がします。

忘れてしまう、ということもわかるし、
忘れてしまいたい、ということもわかる。
日々の生活には追われる、考える余地も、思いを馳せる余地も無い。
なんだか色々モヤモヤしたものを抱えながらも、頑張ります。



2年目の3月11日は病院のベッドの上で迎えます。

正直、病院は暇です笑

今日を境に日本が、今回の手術を境に自分が、
それぞれ仕切り直して良いスタートをきることを願い、
また新たに頑張ります。



そして今日は納谷五郎さんが亡くなられた。
ルパン三世の銭形警部や風の谷のナウシカのユパ様など、
憧れる男をカッコ良く演じていらっしゃいました。
心からご冥福をお祈りするとともに、
備忘録としてここに記させていただきます。




東日本大震災から24ヶ月。

死者数              15,881名
行方不明者数    2,668名

(警視庁まとめ 2013年3月8日現在)

2013/03/05

ご報告。

実はblogとしてはあけましておめでとうございます、です。
3ヶ月放置でした、blog。
HPは更新していたりするんですけどね。
色々書くべき内容やストックは日々貯めていたけども、放置してました。
言い訳としては忙しかったのですよッ!


というわけで今年もよろしくお願いします。


さて、年明けから3月までを振り返りつつのご報告を諸々。


まずは2月1日に参加させて頂きましたグループD.I.L朗読劇公演。
朗読劇公演に昨年11月に参加させて頂いた
synapseの作品「Intracellular Memories」で参加させて頂きました。
会場は川崎市アートセンター。
よくよく考えたら大学在学時以来のバリバリプロセニアムのステージでした。
照明も入り、稽古でさらに内容が深化し、とても良い作品に仕上がりました。
個人的には新たなボキャブラリーの獲得ができた気もします。
いうなれば「心」と「身体」を繋げるボキャブラリー。
「演劇」とか「ダンス」だとかっていう括りにはあまり興味がない、
ということも再認識。
便宜上「ダンス」ということにはするかもしれないけども。
ともかく、色々濃い経験をさせて頂く作品でした。
そのことを今後活かしていくことが最大の恩返し、と思い行動していきます。



そして2月7日に行われました横浜ダンスコレクションR 2013。
金井迪大(以下ミチ)作品に参加させて頂きました。
ミチは大学時代の後輩で、
大学時代から何かとわちゃわちゃ絡んでいたものの、
本格的に一緒に作品をやるのは初めて。
彼の作る作品は何度か見ていて、
好みだったので楽しくクリエイションできました。
普段は役者として活躍しているミチから色々刺激うけることも多く、
また自分が興味あるのは身体の在り方、
「ダンス」ということに至る前の身体、
「間」や「リズム」で変わる見え方、みたいなことだと再確認。

結果は残念ながら受賞ならず、でした。
ですがまぁある視点からのフレームにそぐわなかったというか、
ただご縁がなかったぐらいの感じでいるので良い、と思います。
もちろん受賞できていたらハクがつくだろうけども。
地道に、精進。



2月23日、地域創造の公共ホール現代ダンス活性化事業、通称ダン活。
一昨年の9月に初演しました「1 hour before Sunset」の再演でした。
もともとハードな作品なのですが、初演の時のようにクリエイションから
身体を作り込んでいった訳でもなく、季節も冬ということもあり、
色々大変でした。

2月14日の聖バレンタインデーに右膝ロッキング。
ロッキング自体は軽いものも含めて何度かなったことはあるのですが、
ここまで本格的にロックしてしまったのは初めて。
思えば屈伸したり膝を動かすだけでパキパキと関節の鳴る音がするなど
前兆は常にあったのですが、常にしていたのでそれを普通に思っていました。
指の関節ポキポキなるのと同じような感覚ね、言うなれば。

整形外科で麻酔かけてグリグリしてもらいロッキングは解消されたものの、
違和感・痛みが残り本番出れるのか?という不安・疑問がある中、
公演先である東松山の接骨院の施術の効果もあり
スライディングなど負担の大きい動きの制限などしつつも
なんとか本番はバリバリとこなすことができました。



その翌日は24日は仙台へ。
グループD.I.Lが年間で仙台の児童館や保育関係の方々による朗読劇団体の
指導というか、ワークショップを行っており、
それの最終シェアリングに参加させて頂きました。
本番中はアドレナリン全開で痛みもなかったのですが、
翌日から反動のダメージがキテいる中の参加で多少不自由はありつつも、
被災地のその後の様子を見せて頂いたり、
色々貴重な意見、被災地での思いなどを聞けてとても良い経験となりました。

「Intracelluler Memories」は震災を出発点として作られた作品で
その作品の制作過程などもシェアさせて頂きました。
印象的だったのは全体でのシェアリング終了後に一人の女性が
作品を作ってくれてありがとう、と言ってくれたことでした。
出来事として風化していく中で、作品を作ると言うことで
深く震災について考えてくれること自体が嬉しい、とのことでした。
…なんだか言葉にすると上手く説明できないですが。

風化していくものなんだ、というのはすごく感じたことでした。
車で坂元駅付近の様子を見に連れて行って頂いて、
なかったことにされている感覚がものすごくしました。
瓦礫もきれいに片付いた、吹きさらしの大地に、
線路も駅舎もない電車のホームに煽られるほどの強風が吹く。
「なにか」があった痕跡も、なにもない。
まるで始めから何もなかったかのようにされている感覚。

除塩作業の行われている広大な土地にぽつんぽつんと立っているのは
ショベルカー、自動販売機、半壊した家屋、もしくは新築の家屋。
また津波が来るかもしれない土地であろうと、
そこから離れたくない、離れられない、またやり直したい…
希望や諦め、色々な感情がぐるぐるとわき上がってくる光景でした。

「Intracelluler Memories」のラストシーンは積木で再び街を作り始める、
というシーンで終わるのですが、
本当に人間はそうゆう儚いような希望のあるような、
存在なのだなぁと思ったのでした。

そんでもって今日はこんな記事を発見↓
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013030202000108.html

忘れたいのか、忘れて欲しくないのか、ぐるぐるする。
貴重な、得難い経験。



一週間ほど膝の様子を見つつバイトしつつグダグダと。
鍋やったり、ゴキブリポーカーという謎のゲームに白熱したり。



本日、膝の精密検査へ。
レントゲン・MRをとり、でた結果は…
予想通りの半月板損傷。
ささくれ状態の半月板が膝に引っかかったまま、という状態。
ロッキングしている時点でほぼ間違いないだろうとは思っていたのですが。
なので来週関節鏡視下による小手術をして一週間弱入院です。
人生初入院、人生初手術。
それにしてもこんな状態で「1 hour〜」の本番よく乗り切ったな笑
本番前はかなり調子良かったのだけども。不思議なものだ。

膝負傷してから本番出れるのだろうか、手術することになるのだろうか、
「ダンサー」を自称しているとはいえ、
まだまだ名もなきペーペーな自分が手術してまで続けるのか、
とか色々モヤモヤしたままの3週間弱でしたが、
原因がはっきりし、手術しないことには今ある違和感や痛みは引かないし、
運動性も戻ってこないということで
じゃあとっとと手術しましょ、とスッキリしました。
うだうだ経過観察している間に身体が衰えますしね。

ということで今週の仕事が終わり次第、しばらくダンサーとしては休業です。
とはいえ簡単な手術なので早めに戻ってくる予定です。
今年はひとつ個人的に大きな予定がありますしね。


色々ダダダーッと羅列しましたが、ご報告というのは最後の件。
片桐はいりさんが言うように舞台人は過酷な肉体労働者、
身体が最大の資本、ということをとても実感させられています。
身体がダメになると全てが瓦解する、保証も保険もない不安定な存在。
それでも続けようとしてしまう、希望とも儚さともとれる存在。



とりあえずまだ引っ込むわけにはいかない。
まだ色々なことに「応え」ていない。
新たな仕切り直しだと思って、頑張ります。