2011/05/23

編集される作品における覚え書き。

今日twitterのTLに流れてきた↓
http://togetter.com/li/138454


「きちがい」などいわゆる放送禁止用語の規制に関する子どもと大人の論争。
どのような文脈で、どのような意図で使うかってことなのだろうけど、
なにぶん言葉は普遍的な「意味」や「イメージ」を持っているので難しいものですね。


ちなみに個人的には「子ども」という言葉は意識的に使っています。
「子供」でもいいんですけどね、勿論。
大学時代に沖縄巡回公演に制作で行ったときの癖ですね。


言葉を取り替えること、言葉を隠すこと。
なぜ「隠す」のか、「隠す」ことで生まれてくるものは何か。
「隠す」ものが「晒される」とき、何が起こるのか。
「守る」ために「隠す」のか。何を「守る」?


色々脳内ぐるぐるぐーるぐる。


このtogettre上の論争は放送禁止用語、差別用語云々みたいな方向へ向かっていくわけですが
もともとのスタートは作品内における表現が編集されるということ、だと思うわけで。
そこで最近、同じくTwitter上で話題になったこと↓
http://togetter.com/li/130065


作品に加筆することである方向へ作品の意味が向いていく。
それがいいのか悪いのかはわからないけども、批評やレヴューもある種の答え合わせ、
意味付けのように個人的には思えます。
これもやはりどう捉えるか、ということなのか。


そこで明らかになるのは個人の価値観なんでしょうね。
一人一人違う価値観を持っていて、もちろん似た価値観の人はいるにしもて
絶対的に自分と他人には越えられない壁がある、と言いますか。


なにかのキャラクター、仮面をつくってあたかも自分ではないものに「なる」ことが
できるような錯覚があるような気はしますが、自分はどこまでいっても自分で
他人はどこまでいっても他人。他人にはなれない。


そういったことは前提として、乗り越えていくしかないと思います。
そしてその乗り越える手段というのが「想像する」ということなのではないか、という。




…む?なんだかよくわからなくなってきたぞ?
まぁTwitter上に流しっぱなしにしておくといずれ消えていってしまうので、
残しておく為の備忘録なのでとくにまとまってなくてもいいか。
結論としては…想像することは大事っていうことで。

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