2011/11/29

私たちは何かを語らなくてはいけないのだろうか?

一昨日の夜、深夜バスに揺られ仙台へ。
日帰り石巻探訪。


2011年3月11日、未曾有の大震災が東日本を襲ったとき
自分は金沢でGRINDER-MAN「SONAR」の公演中でした。
東京の人間でありながら、東京で起きたことから疎外された感覚。
大震災に対して他人事のような感覚。
震災から8ヶ月以上たった今でも埋まらないそのような感覚。
その感覚を少しでも埋めたいと思い、
先日やっと被災地へ足を運ぶことが出来ました。


仙台市内でレンタルバイクを借り、石巻へ。
先月ボランティアで石巻に行っていたGRINDER-MANタグチさんの情報を基に
石巻の先、牡鹿半島まで足を伸ばす。


仙台市市街地は何事もなかったような活気にあふれ、
石巻駅周辺市街地も震災の翳りを残しつつも、落ち着いた雰囲気。
しかし旧北上川、石ノ森萬画館を超えたあたりから雰囲気が一変。


まずにおいが違う。


ヘドロのような、動物園のようなにおい。


更地。
「なにか」が「あった」更地。


がれきの山。
「なにか」の成れの果てとしての残骸。


牡鹿半島に入り、トンネルを抜け曲がりくねった山道を進む。
崩落した道路
片道交互通行、工事用信号の赤いカウントダウン
青い「Go」の文字
「女川原子力PRセンターまであと○○km」の標識
暗がりの仮設住宅


当初の予定では半島の突端、鮎川まで行こうと思っていたのですが
ガソリンの残量が心許なかったので途中の荻浜の住宅跡地に停車。
しばらくボーッと、風景を眺める。
目の前に広がっているのはテレビや写真で見たことのある風景。
その惨状に対してはとくに驚きはしませんでした。


ただ、ものすごく静か。


すぐそこに見える海も、山からも何の音もしない。
何の気配もしない。
車が通り過ぎていくときに遠くから聞こえてくる音が近づき、離れていく。
昔観た舞台で「死ぬというのは音を立てなくなるということ」という
言葉があったのを思い出す。
あまりに静かだったので膀胱の栓を緩ませて立ち小便を。


正直、視覚に関しては映像や写真に慣れさせられてしまって驚きはなかった。
カメラも持っていたけど、改めて写真に撮るような気もさほど起きなかった。
でも聴覚・嗅覚・触覚で震災を感じることが出来、来た意味はあったなと
実感しました。




今回の探訪で一番印象に残ったこと。





















「喪中はがき 印刷承り中」


ものすごく強烈な言葉でした。
何の変哲もない、日常的な文章なのかもしれませんが。
とても悲しい感じがする一方で、時間が一方向へ流れていく中で
前を向いて進んでいくような力強さも感じました。
あと1ヶ月もすれば2011年も終わり、新しい年になります。
色々な経験や記憶が風化する中、色々ありましたが元気でやっています、
これからもよろしくお願いします、という挨拶としての手紙。
そこになにか強い意志を感じました。
いや、実際そこまでのものが込められているのかはわかりませんが。
でも喪中の挨拶はメールで、2進法のやりとりでされるべきではなく
やはり手紙で伝える、ということが大事なのじゃないかと。
うまく伝えられないのですが、
被災地で、生活に身近なコンビニという場所で
喪中はがきの印刷を承っているという貼紙があること。
そのことに強く心を動かされました。


国道45号をひたすら走って仙台へ戻る。
途中沿道に広がる広大な田畑を横目に見ながら。
やたら寒かった。
やたら長い夕暮れに感じた。
14時くらいから夕方のような日の傾き具合。
やたら寒かった。
でもそれが良かったような気がします。




震災直後、多くの作品が自粛。
こんな有事の際に不謹慎だ、ということだったり計画停電という理由で。
「そんなこと」をやっている場合じゃない、ということだったのだろう。
でも自分たちのやっていることは「そんなこと」でしかないのだろうか。
有事のときに「こそ」作品を作ることに意味がある、
という人もいたかもしれない。
でも平時のときに意味がない作品はきっと有事のときにも意味はない。
だから「力」のある作品を常に作らなくてはいけないのだと思います。
作品の「力」が何なのか、はわかりませんが
人の心を動かす作品、それは少なからず「力」がある作品と
言えるのではないかと思います。
「そんなこと」ではなく「力」をもった作品。
作る側として、作品に関わる以上はそのことを気にしていたいな、
と思いました。


震災後、震災に対してのリアクションを求められた気がします。
「やる」のか「やらないのか」という大きなことから
どのような作品を作るのか、ということなど。
でもいちいちそんなこと、気にしなくてもいいのかな、と思います。
語ることがなければ、語らなければいい。
無理に語れば、騙ることになる。
語ることがなくても「力」をもった作品なら、それでいいのかもしれない。
変な使命感にとらわれる必要も、ないと思います。
自己満足と、マスターベーションと言われることもあるかもしれません。
でも以前西田シャトナーさんがつぶやいていたように
「あいつのマスターベーション、すげえ!」となるような作品を作ればいいと思う。




たぶん自分は震災に関しては何も語れない。
たいした体験もしていない。
被災地に行ってもみたけれども「他人事」という域を超えられはしなかった。




ずいぶん長々と、色んなところに散ってしまった内容。
結論としては震災はやはり自分にとって「他人事」だと思う。
上手く言えないし、まとめられていない気もするので
誤解を招くこともあるかと思います。
でもその「他人事」とちゃんと向き合っていこうかと思います。



0 件のコメント:

コメントを投稿