2014/04/27

バリアフリーということを穿って考えてみる。

GWが始まりましたね。
GWとか、ここ10年くらい無縁です。
大学在学中もなんだかんだ公演の準備とかだった気がする。


今日はIntegrated Dance Company(仮)設立の為のWSに行って来ました。
最近ダンスで作品を作るってことだったり、踊るってこと以外に
何か可能性はないものかなー、と思っていたりするのでその興味と共に。
ダンスという手段をどう使えるのか、ていうことへの興味なんだと思います。

Integrated Dance Company(仮)は身体障害のある人とない人によって
構成されるダンス・カンパニーです。
詳細↓
http://www.musekk.co.jp/programs/2014_integrated%20dance.html


岩淵多喜子さんと鈴木ユキオさんが共同芸術監督としていて、
岩淵さんとは作品をご一緒したこともあるし、
鈴木ユキオさんのオープンクラスに何度か行ったことあるので
今回はどんなワークをやるのかな、と思っていたら
とくに障害のある方と一緒だから特別なことはない、という内容でした。

WS中にでた言葉で印象的だったのが
気にかける必要はあっても、特別なことをやる必要はないんじゃないか、
という言葉。


ここ最近バリアフリーという言葉はある種自己責任論に
似ているんじゃないか、と思うことがあります。
バリアフリーにするからあとは個人でよろしく、みたいな。
なんでもかんでもバリアフリーにするのではなくて、
バリアはある前提でどうするか、ていうことなのではないかな?と思います。
もちろんバリアフリーなうえで気にかける、が一番なのだろうけども。

なんでもかんでも臭いものに蓋的に処理するだけではなくて、
まず手を差し伸べてみるっていうことなんではないかな、と思います。
…この書き方だとバリアフリーが臭いものに蓋的になってしまうな笑

大枠でガブッて変えてしまう前に出来ることがあるなら
それを頑張ってみるのがいいと思うってことです。
大枠変えることって大変といえば大変ですからね。


そんな穿ったバリアフリーへの考え方と
WSをする時の考え方がなんとなく繫がった気がした。

障害っていうのは目に見えるわかりやすいバリアだけども、
バリアなんてどこにでもあるもの。
そういったバリアに対してもこうゆう考え方が出来たらいいのかも、
と思うのでした。

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