2016/11/04

身体の親近感。

秋をすっ飛ばして、一気に冬がきたのかってくらいの寒波ですね。
地球温暖化の影響でいよいよ四季の国・日本も危ぶまれてきているのでしょうか?

気がつきましたら10月が終わっていまして、11月です。
最近本当に時間が過ぎるのが早いなー、て思いながらも
今年の上半期のことを思ってみるとずいぶん昔のことに感じる。
時間ていうのは自分に対して直線で向かってくるから
相対的に近くほど早く感じるのかな、とふと思ったりもします。

10月は振り返ってみると、「プロ」ということを色々考えさせられる1月でした。

実は10月の中旬は某バレエ団の学校巡回公演にスタッフとして同行してまして、
いわゆるバレエ団の方々の生活を垣間みたのですが…
あー、これがプロの生活だよね、と。
毎日バーレッスン、クラスをし、舞台に立ち、お金を得る。
磨き上げられた身体による超絶技巧はそれだけで観るに値する。
やっぱりプロに伴うのはテクニックなんだよなー、と。
テクニックがある=職業として成り立つ、てことなのだろう、と。

プロとしてやっていくにはテクニックがいる。

と、そんなことを思うのと同時に…

バレエ団の方々を見ていて思ったのは、一緒に踊れそうにないな、ということ。
いわばバレエダンサーとはバレエに生活のすべてを捧げ、
バレエのための身体に仕上がっている、常人離れした身体。
それ故の超絶技巧だし、観る価値のある身体。
一緒に踊るにはその「バレエ」の世界へ踏み入れないといけないような感覚。
実際はそんなことはないのだろうけど、
超絶技巧によって「プロ」というものが明確に分かるが故に、壁を感じさせる感覚。

それにたいしていわゆる自分が属する「コンテンポラリー・ダンス」という世界。

必ずしもあるテクニックに根ざしたものではない、
自由(といわれている)な表現の世界。

テクニックということが絶対ではない世界。
でもそれって逆になにを以てプロ?とも思う部分。

もちろん色々なテクニックがあるのだけども、
その明確ではない部分がコミュニティダンスという入口を生んだり、
ワークショップやアウトリーチといった部分へ繫がりやすかったりするのだとも思う。

誰にでも拓かれたダンスである、ということ。
それであるが故に、プロであるということが明確ではない、ということ。
技術に依らない、生活者としての身体の、ダンス。
だからこそ感じる「身体の親近感」みたいなモノがあると思っていて。
最近の興味はそこにあるワケですが。


とまぁ、色々書いてきましたがこれは「日本」の話だと思います。
海外のコンテンポラリー・ダンサーはめちゃくちゃテクニックあるし。
でもテクニックがある身体っていうのは普通の人から見たら親近感を感じなく、
ダンスをよそよそしくするものなのだろうな、と。

踊る阿呆に、見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損

そんな言葉があるように、やはりダンスは踊るものだと思います、個人的には。

ダンスとの距離感を埋めてくれる身体と
観るダンスのための身体。

プロとして成り立つのは圧倒的に後者の身体。
でもそれが果たしてダンスとの距離感を埋めてくれるのか。
テクニックは大事。
でもテクニックを積めば積むほどに観客の身体とは遠くなっていくのかもしれない。

なんとも興味深いなぁ、と思っています。
とりあえずしっかりテクニックは身につけたいものだ、と気持を新たにしたのでした。

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