2013/11/13

フレーム。

おお、珍しくブログが頻繁に更新できているではないですか!
つまりは最近暇なんですね。
というよりも最近生活のペース、リズムがいい感じ。
大学卒業して5年くらい経つけど、やっといいリズムが刻めるようになった感じ。
でも多分、昔ほど無理して徹夜の現場とか入れなくなったのもあるんだな笑


今日はF/T13のプログラム、シアタースタジオ・インドネシアの公演
「オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー」を観てきました。
池袋の東京芸術劇場前、西口公園に竹で組まれた舞台で行われる作品。
竹で組まれた舞台は楽器にもなるし、装置がぶつかり合う衝撃を伝えるし、
なんともアトラクション的な要素を含んだものでした。
街頭で野外公演に対抗するように張り上げられる客引きの声などが
いい具合に作品にもマッチしていて面白かったのですが
なんとなく個人的にはピンとこなかった。

民俗的な儀式とか祭事と芸術は同じ線上にあるようなものなんでしょうが、
そのへんの違い、みたいなことかとなんとなく感じました。
「作品」というフレームに入れれば儀式も作品化する、みたいな。
フレームに入れれば「作品」になる感じ。

以前父が道端でペシャンコになった空き缶を拾ってきて、
額縁に入れて飾っていたのだが、確かに「作品」らしくみえるのだ。

作品か儀式か、ていうことが問題なのではなくて
その「フレーム」の中にいれるとそう見えてくるというのが面白いなぁと
思いました。
同じひとつのものでも違う「フレーム」に入れたら、違う様に見えてくる、
違う様に評価されていく、ということ。
新しさはその「フレーム」の中だけでのことだったりするのも、ある。

そんなことを考えてみれば、やれることは沢山あるのかもしれないな、
と思いました。


そんなこんなを考えていたら、大学の卒業制作の頃のことを思い出しました。
ウチの母校では創作民俗舞踊というものがあります。
民俗的な踊りをリサーチし、
それをベースに舞台舞踊作品を創作する、というものなのですが
民俗的な、儀式や生活に付随する踊りを
舞台上で行われる舞踊作品にする、というのと
儀式的な要素を作品に取り込む、というのに何かシンパシーを感じたんですね。

「作品」にするにはなにが必要なのか、てことなのかもしれない。
それは例えばフォーメーションだったり、照明だったり。
つまり見せ方、てコトなんではないかと思いました。

「フレーム」とは「見せ方」でもあり、「見方」でもある。
フムフム、なるほどねー
話が二転三転するかと思ったら、意外と戻ってきました。
いい具合にまとまったので、おしまい。


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